ウキアシタタズ

頑張れたことを頑張って書きます

今年の抱負

今週のお題「2019年の抱負」

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はじめに

あけましておめでとうございます。今年もしょうもないことをそれっぽく書いていきましょう。コンゴトモヨロシク。

2019年、新年早々書くことがないからと「今週のお題」に頼ってしまった。だがこのお題、「今週のお題」とわざわざ書かなくても、みんなの「お題」なり得るのではないだろうか。まぁ書くんだけど。

 

抱負

抱負、という言葉がある。意味としては

「抱負」

心の中に持っている計画・決意。 「将来の―を語る」

 ということになっている。決意という様な捉え方でいいだろう。

さて、抱負という言葉が頻繁に使われるのは、「何かが始まる」時である。その最たる瞬間である新年、このタイミングだろう。皆さんは何を決意し、心に刻み、覚悟をしたのだろうか。

 

見落とされた「決意」

「私の抱負について早く話せ?」いやいや、少し落ち着きたまえよ、諸君。そちらについてはまた後で触れるのだからね…。

抱負、という言葉は仰々しいし、義務感が漂っていて普段使う言葉としては、手に余る。だからこそ、新年のこのタイミングでこぞって人は使いたがる。でもやっぱり、手に余っちゃうのが「抱負」なのではないか。

そう思う理由をお話ししよう。その前に質問を一つ、いいかな?

 

「去年の抱負」は何でしたか。

 

この問いに答えられたのであれば、もうこの記事に意味はない。ブラウザバックするも良し、最後まで読んで私を嘲笑するのも良い。

さて、答えられなかった諸君。忘れてしまったのだろうか、自分の決意を。もしそうなのであれば、お笑いものだ。新年お決まりの「行事」と化した「今年の抱負コーナー」は、その抱負を実行する前に形骸化し、忘却の果てに置き去りになっている。そうだな、ひとつ、例え話をしようか。(遠い目)

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一月一日、元旦。親戚が集まって酒を飲み交わしていた。父も母もそこまで酒を飲める人ではなかったが、僕はザルといわれるくらいには缶ビールを開けていた。叔父はそんな姿を「オヤジの生き写し」だと豪快に笑って、えらく気に入ったようだった。

少し前に他界した祖父のことを僕は好きだったし、それを思い出す親戚たちの語り口からも、それとなく祖父への好意や尊敬を感じることができた。だからこそ、「生き写し」といわれたことが嬉しかったし、誇りに思えた。

「〇〇君ももう社会人だもんねぇ」

しみじみと叔母が口を開く。あんなに小さかったのに…。とかそんなことをひとりごちていて、重ねるように叔父がこちらにまなざしを向ける。

「お前も社会人か、今年の抱負はなんだ、抱負。」

叔父が大きな顔を赤らめながら、当然のように聞いてきた。注目させる意図はなかっただろうが、親戚全員の視線がこちらに移る。

 

「僕の今年の抱負はーーーーー。」

 

※フィクションです。

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どうせそんな所だろう。そして言ったことに若干の誇らしさと青臭さを感じて、鼻をこすっては、ハハ…と照れ臭そうに笑うのだ。(例えが長すぎる)

だから抱負という言葉は「持て余す」のだ。そんな見栄を張ったところで、何ヶ月も経たないうちに忘れてしまうのが、抱負であって、人の性なのだ。決意は綻んで、いつの間に霧散していく。

 

今年の抱負

抱負を持ったところで、いつかは忘れ、また新たな始まりに刷新されていくことはこれでお分かり頂いたはずだ。

だからこそ私はこんな抱負を掲げようと思う。

 

 

「抱負があることを忘れない」

 

 

何を言ってるんだ、と思うかもしれない。確かに、そこに抱負としての実態は存在しない。抱負めがけて邁進する訳でもなく、成長もない。

だが考えて欲しい、どうせ忘れる抱負なら、最初から無いのと同然だということを。だからこそ、せめて抱負を覚えていようという気概だけは、決意だけは固くいさせて欲しい。

「去年の抱負は何だったの?」という問いに、来年の今頃、私は胸を張って言える。

 

「抱負が…あったんだ。確かにここに。」

 

それだけは、覚えている。

 

 

 

 

...忘れてるのと大差ないね。

(おわり)