花か団子か
今週のお題「お花見」
なんて機能を知っていながら今まで取り扱わなかったのは、なぜか少し恥ずかしさがあったからだ。これからは気が向いたら書きます。
前書いた「ひなあられと個性」もその時のお題にちなんでのものだ。間に合わなかったけど。
「花見」というイベント
花見を「花を見る」イベントとして享受している人間がいるのだろうか。
結局はアウトドア成分を多量に含む飲酒の場だけでしかないのではないだろうか。
何時間も前から花見の席をキープするために派遣される部下がいる。
それを毎年恒例のイベントとして放送するテレビがある。
そして花が散るころ、ゴミ問題が露見して、それをボランティアで拾う若者が現れる。
私から見て、花見というコンテンツは直接桜を見て風情を味わうものではない。
テレビやニュースを通して映る「桜」と花見が引き起こす定期的な諸問題を予測し、それが現実に起こることを観察し、悦に浸るだけのものだ。
…というは流石に冗談だ。これではシニカルを通り越してイタい奴だ。
「花より団子」、花見界を席巻
一方で、花見というコンテンツは本来の在り方との乖離が著しいと思う。
冒頭でも述べたが、「花より団子」が当たり前になりすぎてはいないだろうか。
「花より団子」が言葉、あるいは慣用句として成立するのは、
「花派」と「花より団子派」が微妙にせめぎ合っているからであり、
花派の「飯ばっか食べてんじゃねーよ!」というツッコミは団子派に対して行われている。
あくまで想像上の話だが。
※見た目よりも実利を取る…という意味の「花より団子」ではなく、言葉通りの「花より団子」について書いています。ややこしい。
花見≠花見という状況
ではこれが「花見」というイベントの形骸化、すなわち基本的なスタンスとして
「花見≠花見」であり、桜を見るよりも、飲んだり食べたりが当たり前な「100%団子派」という状態になった時、桜はどんな顔をするんでしょうね。(知らねぇよ)
時間が経つごとに言葉やイベントの意味が変わっていくのは運命だと思うが、花より団子という言葉は今、他人に言うものではなくなっている。大前提だからだ。花より団子であることが当たり前になっている。
むしろ盛り上がっているのに、桜を見上げて「桜…思い出しちゃうな…ハハ…」
なんて言おうものなら、そいつは来年の春には咲くこともなく散っているだろう。
いま、ツッコミとしての「花より団子」は幕を閉じつつある。そして団子派100%の時代が始まろうとしている。まさに行事と言葉の関係性が問われる一例だろう。
変わりつつある季節に、これから出会う「花より団子」の意味に想いを馳せる…。
春風を感じながら、そんなことを考えてみるのもオツかもしれませんね!
(PV数を稼ぎがちなブログの終わらせ方の模倣)
おわりに
「花より団子」そんな言葉のアヤを取るようで申し訳ないが、こんなことしか花見について思うことがなかったので許してほしい。
加えて、今年の花見がどうなるかは知らないが、席をキープするためだけに派遣される部下や後輩がいたなら、どうか皆さん優しくしてあげてください。柿の種あげるとか。
(おわり)