ウキアシタタズ

頑張れたことを頑張って書きます

退屈と毛

はじめに

私は電車を多く利用している。基本的には都内か、行っても神奈川なので、移動するエリアをあえて言葉にするなら「都会」なのだと思う。

中学から始まり、高校、大学、そして社会人と、私の移動手段は電車だった。電車といえば退屈、退屈といえば電車だ。音楽を聴くなり、本を読むなり、退屈を回避する手段は多岐に渡るが、多くの場合それは「外部からの持ち込み」であり、正当な退屈凌ぎの手段としては、100%縦に首を振れるとは言えない。大体60%くらいだから、現状だと斜めに首を振ることになる。薄気味悪い

「退屈凌ぎ」を公式なスポーツのように、ルールに則ったものとして扱われる世界線があるなら、多分「外部持ち込み可」と「持ち込み不可」があるし、「持ち込み不可」のプレイヤーの方が退屈凌ぎにかける想いは強そうだ。まぁそれは非常にどうでもいい。

 

退屈凌ぎ

改めて、電車の中での退屈凌ぎとは何か、ということを考える。


代表的な手段としては、寝る、景色、広告を見る、位だろうか。寝る、というのは良くない。それは退屈凌ぎではなく、退屈からの逃走である。遊戯王ならサレンダーだ。

景色に関しては、もう通学通勤で飽きてしまっている可能性があるから、数には入れにくい。


となると、変容と視覚的な情報を与えてくれるのは車内広告くらいしかなくなる。


そこまで考えて、顔を上げる。おや、脱毛の広告があるじゃないか。全身脱毛が3800円。しかもプレミアムと名乗っているらしく、生涯メンテナンスを保証している。これは‥安いんじゃないか。生涯ということだから、やろうと思えば産毛から始まって、毛根が朽ち果てるまで、毛にまつわるメンテナンスをしてくれるということだろう。これはすごい。すごくて安い。

ほかの広告に目をやっても、脱毛を勧めているところを見るに、世間的には毛が生えていないことを良しとする空気があるのかもしれない。

 


一方で「毛がない」ことは一般的に面白さの対象として物語られることを思い出す。

そうでなければ、世間を賑わせた、「このハゲーッ!」という発言から面白さというニュアンスが消え、ただただ残酷な発言として世間に取り沙汰されていたのではないか。

 

「毛のない人にあんなこというなんて…」

「なりたくてハゲた訳じゃないだろうに」

 

そういうフォローが行き交うだろう。この時点で既に面白い。ハゲを取り巻く空気が深刻なだけで面白いんだから、ハゲという概念はどう扱っても面白いと認識されている。世間とは実に残酷だ。

 


毛を熱望するハゲと、生涯かけて脱毛しようとする世間。生えどころが違うだけで、「毛」の価値は逆転するのだと、また一つ学んだ。

 

 

 


「まもなく~新宿ゥ~」

 


頃合いを見計らったように、車内のアナウンスが響く。意外と早かった、そう思った。


退屈は、凌げたかな。


(おわり)