ウキアシタタズ

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アットホームな職場です!(笑顔)

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はじめに

 

「社員同士仲が良く、アットホームな職場です!」

無機質に並べられた求人広告をスクロールしながら、ありふれた表現に何故か目が止まった。掲載された写真には、社員であろう人たちが満面の笑みでガッツポーズを取っている。それは男女がバランス良く配置され、社内環境の良さを伝えている。

掲載された写真は求職者に見せるものとして出来過ぎている程適切で、適切が故に、悲しいくらい、普通だった。

ありふれた表現と写真。

どの会社も規則に習ったように同じ景色を切り取っている。

求職者のニーズに応える王道として、ベストされる表現、それがアットホーム。

果たして求職者にとって、あるいは私にとって、アットホームであることは本当に王道なのだろうか。

ありふれた表現にうんざりしながらも、興味がある。

はてなブログのアプリを起動して、記事を書いてみようと―――思った。


アットホームとは何か

そんなに難しい話ではないが、わざわざコトバンクから引用するのであれば、

アット‐ホーム(at home)
[形動]自分の家にいるようにくつろげるさま。家庭的。「アットホームな会合」


こういうことである。

家のような、ということである。会社なのに。勿論、働き方改革ワークライフバランスなどが重視される時代になってきて、風通しの良さを求める人と、それを発信する企業がいることに何ら疑問はない。

ただ、アットホームであることが絶対的に行われている職場は、本当に望ましいのか、と仮説を立てた上で、私目線で自己中心的に考えていこうと思う。

 

「人の家じゃん」という感覚
私自身、いわゆる普通の人間であるつもりである。それでもこの「アットホーム」という言葉に引っかかるのには理由がある。


言葉を極端に過大解釈するのは、いつもの事として、言いたいのは

「他人の家に入って、本当に家族同然になれるの?」ということである。

アットホームな職場である以上、それは言い換えればひとつの構成された「家」である。家のような、という表現に甘んじているものの、家のような場所に新参者が入ってきて、家族になっていく、というのはいささかハードルが高くないか?そう感じたのだ。

私は福山雅治が「家族になろうよ」というようには中々なれなさそうだ。

※主題歌として扱った「そして父になる」はまさしく構築された家族の話ではあります。


違和感のもと

あくまで私自身の見解でしかないし、こんなにアットホームという言葉に穿った見方をする必要もそもそもないかもしれないが、もし少しでも共感する人がいたならば、共通する感覚として、会社を「働いてお金を稼ぐ場所」として認識しているのではないかと思う。


会社は会社であって、家ではない

 

なんて当たり前過ぎて改めて文に起こすのもおかしいが、家と会社に線引きをしていることから来る感覚だというのは確かである。

家と会社、という線引きは勿論だが、家と家に交わることのない境界を感じているからこそ、「アットホーム」に突っかかるような真似をしてしまうのだ。

 

ただの好みでは?

ここまで批判しておいてどうかと思うが、

要所要所でアットホームであることは、良いことだと思う。上下関係、年功序列が薄れていく流れの中で、フラットに仲間と仕事をしていけることに、批判の余地はない。

ただ、企業という枠組みの中で、社員同士の関係性がもうガッチリ出来上がっていて、身内ノリのようなものが横行している「アットホーム」の中を「家族になろうぜ」というのには、やはり違和感が拭えない。というか、私はそこまで神経が太くない、そんな話だ。

※個人の感想です。

(おわり)