ウキアシタタズ

頑張れたことを頑張って書きます

猫がいる日常を思い描く私の日常

今、実家で「動物を飼おう」という潮流が生まれつつある。

犬か猫かといえば、犬派の私だが、猫を支持する私以外の家族3人に無視されるので、そのことについて口を開く気は無い。

ただ、「猫」を飼うことが、私にとって日常足りうるほど自然な存在であるか否か、家族の思惑とは関係無しに考え込んでしまう。

 

破壊と日常

私の親戚は猫を3匹飼っている。2匹はしっかり人の手で育っていて、1匹は野良が住み着いて…という形のわけだ。

どれも余所者(私)がいる間は大人しい。というよりも大人しいと親戚から伝えられると言い換えた方がいいかもしれない。

ポジティブに猫を捉えてくれ、そういう意味で「大人しさ」を主張されているように感じるのだが、言葉とは裏腹にガリガリに削られた壁を見る目は憂いに満ちている。

 

そんな私の親戚の姿を見ていると、家が壊される、そんな「非日常」を「猫のいる日常」として受け入れることは、私にはできそうにない。

 

気まぐれと踊る日常

猫は気まぐれ、というのは、犬が従順であるのと同じレベルで語られるし、大方異論はない。

気まぐれな彼らは、当然こちらの善意をひょいと避けて行くのだろうが、私はそれに耐えられるだろうか。耐えられないとどうなるのだろうか。

変な話だが、こんなひねくれた私が猫なんてひねくれた生き物を飼って、踊らされて、自分の"ねじれ"を真っ直ぐに伸ばされたのではかなわない。ひねくれ者は社会に一部でいい。いや、家庭に一人いれば十分だ。

 

無言と対話する日常

かといって、猫とのコミュニケーションを放棄する訳にはいかない。勝手な知見だが、猫の知能と人の知能を比べれば、恐らく大きな差があるだろう。そうであれば、尚更私は大人として彼らと向き合わなければならない。

私の話をしよう。私自身、子どもは好きだが、言葉も話せないような、いわゆる乳児との関わり方が分からない。分からない故に「子どもが苦手な可哀想なやつ」というレッテルがついてまわる。ある意味間違ってはいないので、改めてここでそれを否定することはしない。

注目してほしいのは、猫も言葉を持たない、ということだ。

動物好きが見るであろうバラエティ番組では、無邪気に振る舞う動物達に声を当てて、「人のように」動物達を振る舞わせるが、実際の動物達の心境とは異なるだろう。

あれは人のエゴだ。「こうあって欲しい」という人の願いを動物の所作という器に押し込めたに過ぎない。つまるところ、話す、あるいは人の意思を持ったかのようには動物は動いていないということだ。

その点に置いて、乳児と猫は類似している。話しても、伝わっているか分からないし、その返答も曖昧だ。「だぁだぁ」と「にゃあにゃあ」に差などない。

そんな相手を前に、私は言葉を紡ぐことが出来ない。息が詰まる。しかし一方で「話しかける」ことは求められる。「伝わっているかもしれない」という人のエゴに人である私が翻弄される。なんと皮肉なことだろうか。

……ここまでで、猫とコミュニケーションを取るという行為が私に取ってハードルが高い、ということだけ伝われば、それで良い。

 

それでも猫は日常化する

御託を並べ続けたが、私は最終的に「猫のいる日常」の一部になるし、こんな苦悩を抱えているとも知らず、猫は気まぐれに、自分の存在を日常に溶け込ませていく。

猫に絆されるのが怖いのだろうか、私には分からない。実際買ってみたらデレデレで、こんな文章は思い付かないのかもしれない。

そしてこんな私を猫は許すだろうか。身を委ねてくれるだろうか。今はまだ分からない。

 

…にゃんにゃん(萌えキャラ並感)

(おわり)