ウキアシタタズ

頑張れたことを頑張って書きます

結論、愚痴。

SNSなどでよく見る犯人像について

 

はじめに
今、SNSの不毛なリプライ合戦は、どこにでも見ることが出来る。ストレスを溜めたいときに是非活用してほしい。

ところで、そんな不毛な争いを見ていると、「誰が悪いのか」という話でレッテル張りや揚げ足取りが盛んに行われているのが分かる。
場所を変えても、同じような論争が広げられている。話題も、そこを構成する人物も異なるのに、だ。

 

そこで私は、「これを1種のパターンとして読み解けば、批判する人間を俯瞰して見ることの出来るーーすなわち、冷静な人物像として君臨できるのでは?」と邪で稚拙極まりない内情を理由に、この文を書き始めた。

 

要は対象をカテゴライズをすることで、自分自身の優位性を得ようとする気概が、高まってしまったのだ。

書いていて既に自分自身を小憎たらしいと感じ始めたので、書き溜めてたものをコピイアンドペイスト(ウザい)にて本文を以下にしるす。

 

犯人像① 加害者
最もわかり易く、そしてほぼブレることのない犯人である。この人物が居なければ問題にすらならない。当然の話だが、ネットや世間に知れ渡れば物凄い非難を受ける。

一方で、事象に対して一切無関係である第三者が過度に叩き過ぎでは?と感じないことはない。何かの罪を犯した人間というのであれば何を言っても、行ってもよいのだろうか。

犯罪や悪事は然るべき処置で裁かれるべきだが、相手が悪人であれば何をしてもいい訳では無いし、残念ながら第三者たる私たちには加害者を裁く能力も権力も有していない。

結局のところ第三者からしてみれば、加害者は鬱憤ばらしのために使われるだけの存在なのかもしれない。

当然、こう言った社会的な非難と法による処置を引っ括めて「断罪」とする論もあるので、簡単に結論付けることは難しい。

ただ、言えることとして、第三者たる私たちには加害者といえど、過激な言葉で粛清しようとする義務などないことと、それがSNS等では、被害者を含めて多くの人に伝わる可能性があることの意味を考えなければならないということだ。

 

犯人像②被害者

自分で書いていてもう既におかしいと感じているが、ケース的には有り得るので、ここに記すことにする。

この場合は大きく2つに分かれている。

一つは「加害者は何らかの方法で裁かれたが、被害者にも事象を起こした罪がある」場合だ。
昼ドラのミステリーやサスペンスなどではよく見られるが、加害者からあまりに酷い扱いを受け続けていて、耐えられなくなって事を起こす、というパターンや、いわゆる喧嘩両成敗的な結論に持っていくような時、このケースは起こり得る。

至極簡単に言ってしまえば、両方加害者であり、被害者でもある。ということだ。

ただ実際のところ、あまり見たことがない。と言うよりも、そういった加害者と被害者の関係についての深い所まで、知るべきではないというところなのか、あるいは報道機関なり、伝える側が端折っているのかは、わからない。

被害者を犯人とするの2つ目のケースは、
「被害者は予防、あるいは阻止できた可能性を無視している」という論調だ。

こちらは所感ではあるものの、大体お門違いなのではないか?と感じることが多い。

痴漢であれば被害者が
「痴漢に遭いやすい格好をしている」
いじめであれば
「言い返さなかった」
インフルエンザ等、病気の場合
「予防できたのでは?」

というような形で持って現れる。
犯人像①でも挙げたように、第三者は事象とその関連する人物に対して何のアプローチも出来ないので、あくまでその"実情"は想像によって支えられている。

タチが悪いのは、実情が想像とかけ離れていようがお構い無しに批判を繰り返すことだ。

根も葉もない言い方をしてしまえば、ひねくれて考え過ぎである。加害者が悪い、それだけでいいのではないだろうか。

 

こういった論調が起こり得るのは、
「自分の身は自分で守れる」という考え方の暴走だと私は考える。他者に対して批判的になれるということは、裏返せば「自分ならばそうはならない」という確信の元でなされる。

だからこそ、
自分は(今の所)間違っていない
=他者はどこかしらを間違えている
と考えてしまうのである。しかし、物事というのは人が予測できる事ばかりではない。事故であれば尚更だ。

「自分であれば大丈夫」という確信は、
事が起きてないからこそ、信じられるものだ。
人は自分がいつか死ぬとは知っていても、それが明日だとは思っていない。

そうしたことを念頭に置くと、
「自分の身は自分で守ろう」という理論は、ある程度までは有効であるものの、一定のラインを超えてしまえば幻想である、というのが私の見解である。

第三者が加害者どころか、被害者までも批判の対象としてしまうのには上のような心理が働いているのではないだろうか。


犯人像③ 社会(みんな)

今まで散々第三者の批判ぶりを批判してきたが、私も含めてこうなってしまったのは、特定の誰かが悪事を働いたからではない。

いつの間に、何らかの作用が働いて、雰囲気が出来上がって、あたかも自然にこうなってしまったのだ。誰が悪いわけでもないが、全員が悪いとも言える。

というのがこの犯人の決定の仕方である。
社会というものがあまりに多くの要素を内包しているが故に、反論がしにくい上、正しそうに見えることが多い。

「事象Aが起こったのは、事象Aを起しやすくしてしまった社会にも要因がある。」

誰かのせいにしていない分、誰も責任を感じないこの論理は「正しいが、何も変わらない」ものだと私は考える。

この理論が発展しやすくなる際、多くの場合は社会的な大ニュースや大規模な事象である。
事の大きさから、一概に誰かを罪に問えないために、社会全体を批判するという流れだ。

悲しいかな、この論理は使い勝手が非常に良いため、逃げ口上としても有効である。

特定の事象において自分ないし他者と批判し合う時、「あなたも自分も悪いのだから、受け入れてしまってお互い批判するのは止めましょう。」と言った具合にだ。

こういった結論が出される時、改善策として提案されるのは殆どの場合において
「みなさんの意識が社会を変えます。なので気をつけましょう」くらいのレベルに落ち着く。

 

犯人を決定した上での改善、というのは法による処置や、厳しく矯正することでもって達成される。しかし、犯人があまりに曖昧で多数に及ぶ、社会というものを相手にすると、責任が分散…いや霧散することで、投げやりな結論になってしまう。

また、たとえば、人間が増えすぎて起こる問題に関して、人が居なくなればいい、という過激な意見を稀に見かけるが、社会を犯人にした際に醸し出される、やり切れない雰囲気に対する、かれらなりの一応の答えなのではないだろうか。

一般的に過激であればあるほどに、答えはハッキリする。逆に穏便にすまそうとすればするほど、答えは曖昧になるだろう。
そういった対立構造を見るには、社会全体を犯人として挙げることに意義はあるのかもしれない。

 

犯人像④ 物

モノが犯「人」というのもおかしな話だが、世の中の問題が「モノのせい」というのは良くある話ではなかろうか。

『犯人像③、社会』で扱ったような責任の霧散、というような現象はこちらでも起こり得る。責任というか、モノは当然口を聞かないために、一方的に犯人扱いされることがある。

SNSのせいで問題が起こる
インフラが充実したので、都会に人口がより集中した
スマホ歩き
などなど

モノが便利になり過ぎたせいで、人は何かを失っている、という論調がある。まさにこのことを指している。

至極真っ当だと思うことを書かせてもらえば、モノは所詮モノであり、モノが人に作用することはない。人が間違えてモノを使うから問題になってしまうのだ。

ただ、便利になったモノが人にとって目に見える効用だけを発揮しているとは限らない。

効率化によって時間が生まれる。携帯化することで場所に縛られなくなる。空間と時間の意味で人に余裕を与えている。

当然技術の進歩の多くは企業などによる、たゆまぬ努力によるものだ。企業は新しい価値を私たちに提供してくれる。いや、提供し続けなければならない。

つまり、限りなく世間は便利になっていく、ということだ。そして便利さ、というのは一度知ってしまうと手放せないものである。

企業ないし資本主義は便利を提供し続ける。
人々はそれに依存していく。

この関係は恐らく、一度文明とは逆方向のパラダイムシフトが起きない限り、永遠に続くような根の深い問題である。

故に、モノのせいにする、という人間側の「ミス」は、もう限りなく解決するのは難しい問題なのかもしれない。

 

おわりに
ここまで世間、とりわけSNSやネットでよく見る犯人像、という形でそれっぽく書き上げたわけだが、よく考えればこれは愚痴なんだと、振り返って思う。愚痴だと思ってしまうのは、きっとそれがここで叫んでも世間が変わるわけではないからだ。そして何より私自身がこの文章に対するレスポンスを望んでいない。


オチもねーのか!この野郎!
(おわり)