ウキアシタタズ

頑張れたことを頑張って書きます

クリスマスとリア充の関係について

こんばんは、ふらすこです。クリスマスについて考えてるとどうしてもリア充の存在がまとわりついてくるので書きました。

はじめに

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きらきらだぁ!(無邪気)
今年も早いものでもう12月です。それはつまり、クリスマスが到来することを意味します。
今はSNSが普及して、イベントがあるごとに世間がどんな反応をしているのか、スマホ片手に見れるご時世です。正月やハロウィンはそこまで人々の反応に差はありませんが、クリスマスだけは何故か反応が極端に割れますよね。

素直に喜んでいる人もいる一方で、身内でも殺されたのかと言わんばかりに恨む人もいます。
中には「クリスマス」という事象そのものを認知出来なくなっているケースも少なくありません。また、こういうスレッドをよく見かけるようになりますが↓

【速報】2016年クリスマス中止のお知らせ

中止するものではありませんよね。(現実)

そんな賛否の別れるクリスマスですが、大衆はリア充か否か」という価値基準で持ってそれを良いか悪いかを判断しているのではないでしょうか。今回の記事ではそんな仮説を基に、クリスマスとリア充の関係性について考えていこうと思います。

リア充について

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「リアル生活が充実してる」が恐らく正しい名称でしょうが、現在ではその人のステータスとして語られることも多いでしょう。

普通に考えれば、現実が充実するための条件に「彼氏ないし彼女がいること」は十分条件であって、必要条件ではないと思うのですが、リア充であることを指摘される場合、クリスマス手前のときは、大半において恋愛関係の人間がいることが共通認識でしょう。

異性の存在の有無だけでない、本来の意味において、充実した生活を送っている「真のリア充という言葉も以前見かけたことがあります。こちらが正しいのだと私自身も思わなくはありませんが、世に使われる「リア充」と差別化するならば、こちらは「広義におけるリア充であると言えるでしょう。

そんなリア充という言葉ですが、なぜクリスマスと深い関わりがあるか、考えたことはありますか?クリスマスというイベントがリア充のためにある、そういった認識が日本において成されていると私は考えています。

クリスマスにおける「リア充」への認知

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巨人の星にて。これは…。 

クリスマスに限らず基本的に、季節の行事ははみんなのものです。誰かのものであったり、取ったり取られたりするものではなく、楽しもうとした人が楽しめるシステムになっています。
ハロウィンなんかは特にそうですよね。誰でもやろうと思えば仮装できるし、「合言葉」も使えます。
七五三や成人式というようものが反論として挙がるかもしれませんが、基本的に指定の年齢まで生きていれば誰でもイベントを通過点として享受できます。

クリスマスも同じように平等のはずですが、何故か「リア充」であることが強調されて物語られます。クリスマスで1人であることを「クリぼっち」と称するほどに「クリスマスとは誰かといるもの」という前提条件が見て取れます。

クリスマス前の女子大生の話を聞いても、
「どうしよ〜クリスマスまでに見つけなきゃ〜」
というような話を耳にします。文脈から鑑みて、クリスマスを共にする彼氏を探さなければならない、という見えない何かに強迫されているように見えます。

その点、リア充であればそんなことを心配する必要はないのでしょう。また、何かに焦っている彼女たちの存在の一方で、リア充であることを気にしない人たちもいます。

  • こども

サンタさんにプレゼントをもらえる最高にテンションのあがるイベントです。年始のお年玉もあり、もうワクワクで仕方ありません。リア充を本当の意味で認知していません。多分。

  • その親

ある意味で既にリア充ですね。そういった点から書く必要はなさそうですし、こどもを持つ親が

「あぁ^〜妻いるし俺はリア充〜」
なんて考えている人はいない…と思います。
自分がリア充であるかどうかはもう視野から抜け落ちています。それでいいと思いますが。

  • ひとりの人

人間は社会的動物です。こんな人は存在しませんが、クリスマスを誰かと過ごすということに価値の重きを置いていない孤独な人物であれば、リア充云々抜きにクリスマスなんて余裕でスルー出来るでしょう。

そもそもリア充かどうかを気にするのは、主に学生が多いと思います。そうなると今度は「なぜ学生はリア充でありたいのか」という疑問が浮かび上がります。機会があれば書いてみますが、今回はパス。

 

クリスマスとリア充の結びつき


さて、リア充を気にする側の話に戻そうと思います。なぜクリスマスはリア充に特化しているように見えてしまうのでしょうか。

  • 総合的にロマンチック

恋愛においてロマンチックなのは大事です。どう大事で、ロマンチックさがどう恋愛に作用するかは知りませんが、ロマンチックなのは恋愛に向いています。そう思いませんか?

イルミネーションは綺麗だし、気温の低さは互いの距離を縮めますし、プレゼントは相手への気持ちを伝える素敵な手段です。これらは全て、ロマンチック度の高い現象及び雰囲気だと思われます。そうした異性との様々なチャンスとしてクリスマスは恵まれたイベントであると言えるでしょう。

  • お金がまわる

下世話な話ですが、リア充が相手に素敵な思いをさせようとすればするほど、それに準ずるサービスを提供している企業が儲かります。
そして、誰に対しても特別な日にはちょっと良いものを…と思うのが世の常です。つまり店や会社にとっては商品を売るチャンスです。

バレンタインにも同じことか言えますが、経済の視点から見てもとってクリスマスは特別な日です。食事やイルミネーション、夜景などロマンチックな環境を提供し、リア充たちの成功を手伝うことが企業自身にとっての使命です。企業の多くがそのように取り組めば、社会の景色は変わります。クリスマスがリア充のためのように見えるのは、そうした影響もあるでしょう。

上記がクリスマスをリア充に特化して見させる理由だと思います。慣習とビジネスの繋がりは非常に強く、これからも「クリスマス」という景色を作っていくのでしょう。

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↑そしてその景色を作る人たちは…。

まとめ

フリー素材の「いらすとや」のせいで闇が見え隠れする内容にはなりましたが、こうして書き起こしてみると、文化や慣習がビジネスにとってどう影響しているのか、大学の授業を真面目に受けたくなってきますね(?)。リア充というテキトーそうに見える問題でも、ガンガン掘り下げて考えると、見え方も変わります。それだけで私にとっても、日本にとってもリア充は必要な存在なんだと確信しました。

同時に結論として、家族にとっても、企業にとっても日本の人口問題から見ても、1組のカップルから考えてもクリスマスは必要なのだと思います。

総評:くりすますの ちからって すげー!

 

以下番外編

(書いたものの気に食わない。しかし消すのも嫌なので、番外編にしました。さらっと読んで下さい。)

なぜリア充は爆発しなければならないのか

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リア充がよくリア充に対して当たり散らす時、「リア充爆発しろ」とよく耳にします。爆発することを願い、祈る。これがどういった気持ちなのか図りかねますが、強い怨恨を感じます。ただ最近では嫉妬だけの意味ではなく、「末永く幸せに…」という優しい願いを込めた爆発もあるようですが、爆発したら危ないし、死んじゃいますよね。それに少子化が進んでしまいます。

マジレスはさておいて、非リアにとって本当にリア充は爆発してほしいのか、それをパターンとして分けてみます。

  • 言葉として使いたいだけ

大抵このパターンです。本当に恨んでいるわけではなく、ネタとして「爆発しろ」と乱発しています。本当は友達もいるし、孤独を感じている訳でもありません。それはまぁ良しとして、場合によってはリア充A群→リア充B群に対して使うことも散見します。その馴れ合いこそ顰蹙を買っていいのでは?と思わずにはいられません。

  • ネタ半分、負の感情半分

ネタとして使われることの多い「爆発しろ」ですが、自虐ネタとして使ったつもりが自分に跳ね返ってくるケースもあります。内心では自分の非リア加減にうんざりしています。自虐ネタがネタとして機能していないです。見ていて切ない。

  • 純度の高い負の感情

爆発しろ、という生易しい表現では収まらない激しい憎悪がここにはあります。文章として描き起こせばそれは最早呪詛と区別できません。ゆえに見かけることもあまりありません。藁人形など高度な呪術を用いて実害を与えようとしています。過去に何かあったのでしょう。

 

こうして考えてみると、ネタとして使うことが大半で、そのなかで少数は傷付きつつ、さらにごく一部はSNSに浮上することもないまま、怨みだけを積み重ねているのではないでしょうか。(おわり)