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ウキアシタタズ

頑張れたことを頑張って書きます

東京~静岡県浜松市まで歩いてみた

 

夏休みに5日間かけて浜松まで歩いてみたので記念すべき第1回の記事はそれについて書こうと思います。

 

1 達成感がすごい


これは誰でも容易に想像できるだろうが、達成感がすごい。今回の旅では1日に40kmちょっとを8時間歩き続けることを必要とされた。現代で多くの人が経験したことのない距離を歩き切ることは、自分を褒めずにはいられない。

 

この歩く旅そのものに「日本を知る!」「自分探しをする!」のような大義名分も意義もありはしない。ただ単純に、
「とても長い距離」を「自分の身一つ」で攻略するという要素だけで、いや単純だからこそ達成感があったのかもしれない。

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↑足利山。山小屋にいたお婆さんに撮って貰いました。気付かないうちに登山になってたのはもうあまり覚えていない。

 

2 ありがたみが増す

 

ありがちだが、やっていることがそれなりに苦行に近いため、日々の暮らしを支えているものに対して感謝度が増す。孤独は人の有り難みを思い出させるし、公園で寝ればベッドが恋しくなる上、普段のセキュリティの心強さを知る。歩いて5日間という時間は電車で2時間で到達できる距離だと知り、インフラが如何に時間と余裕を社会にもたらしているのかがよくわかる。

 

ここで言われれば当たり前のことばかりだが、
「知ってる」と「(身を持って)理解する」のとでは天と地の差だ。当然車や青春18きっぷを使った旅行も有意義な時間をもたらしてくれると思う。


ただ、「220kmもの距離ずっと地面と足がくっついていた」という"身一つ感"は徒歩以外に得られるとは思えないし、全ての苦労も喜びも全部自分のもの、という実感は全能感すら覚えさせる。…かもしれない。

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↑町田あたりからスタートしたので、こんな感じ。今見ると根性あるな、とは思う。

 

3 擬似的な自由を得る


何をもって自由かについて語る気はないが、この旅は自由だった。どこを歩いてもいいし、どこに寄ってもいい。最終的な目的さえ決まっていれば、という感覚はさながらオープンワールドのゲームのようだった。FALLOUTやウィッチャー、スカイリムだとかがこれにあたるが、感覚として近かったのはFALLOUTだった。単純に1番深くやり込んだゲームだったこともあるが、田舎道特有の廃ビルやガソリンスタンドが、いかにもな雰囲気を醸し出していた。別に静岡が世紀末だと言いたいわけではないので悪しからず。

 

「初期装備でマップのどこまでいけるか」みたいなワクワク感はこの旅にもあったし、金太郎由来の山だと知らずに登って、後から熊の脅威に気付いたり、公園で寝て起きたら隣に知らない人が寝ていたり、まさしく冒険だったと思う。

 

同時にオープンワールドのゲームの出来の良さにも感心する訳で、ゲームの楽しみ方を広げられた感がある。

 

また、1度大きな意味での「自由」を体感すると、自分の暮らしの様々なものが解き放たれるような気がする。凝り固まった生活をしていると、それが普通になってしまって、抜け出す発想すら湧かなくなることはままあるが、時々こうして「自由!」を体感出来ると生活にも色が出るのだろう。今後忘れないようにしたい感覚だ。

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↑大体見えている景色は青か緑。目に良さそう。

 

4 静岡県という場所を知る

 

今回はそのほとんどの距離が静岡で占められる旅であった。静岡県、横長過ぎである。静岡から沼津、そのままずっと行って磐田から浜松までを歩いたわけだが、感覚的には三県分くらいを歩いたような気がする。岩手だとか新潟はもっと長いのだろうが。時に新幹線の隣を歩くこともあって、新幹線に乗っていて見える「一瞬」がここまで長いのかと驚愕し、若干挫けることもあった。

 

旅の最中はなかなか苦しい状況が長く、なおかつその解決方法は歩くことしかないわけで、途中で気が狂ったように歌い出したり、田舎になぜか多いキリストからのメッセージで笑い続けたり、自分を悠々と抜かしていく車や電車に怒りを覚えたり、後から振り返るとあまり正気だったようには思えない。

 

しかし苦しいこととは楽しいことを増長させるもので、旅の途中寄った銭湯がさながら天国であったことは語らずとも想像できよう。温泉からモノホンの富士山が見える、という環境は非常に贅沢だ。休憩室で聞こえてくる静岡トークの地本感は癒しだったし、

「温泉玉子が出来上がりました〜」

というアナウンスで子供も老人足早に買いに行く姿に愛しさすら覚えた。端的に言えば静岡県を好きになったのだと思う。単純だが、それでいいのだ。

 

行った店が良かったのか、美味しいご飯にも巡り会えた。知る人ぞ知る「さわやか」というファミレスに行ったときは、コスパの良さと雰囲気に感動すら覚えた。ハンバーグ美味すぎ問題である。2度とそのへんのチェーン店でハンバーグを食べられない呪いを受けた。

 

本格的な沼津のバーにて、ドヤ顔で通ぶったカクテルを頼んで、「通ですね」とさらりと受け流してくれるバーテンのお兄さんの寛容さたるや。静岡で出会った物事や人々はなぜか私に優しかった気がする。どう考えても気のせいなのだろうが、私が静岡を好きになれたのだから静岡県にとっても得なはずだ。(?)

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↑「許せない!」というフレーズでずっと笑っていた。疲れていたんだと思う。

 

5「やればできる子」という自信

今日に蔓延る「やればできる子」という評価は、やってもいないことを「できるかもしれない」という可能性に賭けて、自分を正当化するための限りなく自分に優しい言葉だと思う。
別にそれが悪いとは思わないし、筆者はそうよく自分に言い聞かせている。ただ、今回の旅で気づいたことは自戒も込めてここに記そうと思う。

 

この言葉、本来なら「やってないから分からない」が正しい答えだ。以前出来ていたことが出来なくなっていればそれは「今現在〇〇が出来ない奴」という事実に過ぎない。基本的にこれからやることというのは未知であり、実行してはじめて自分が「できる子」かどうかが判明する。だからこそ、四の五の言わずに「やる」必要がある。徒歩旅に限って言えば自分は「やった」と断言できるし「出来た」という結果もハッキリした。

 

この旅の話をすると大抵は「なぜ徒歩で?」という至極当然な質問をぶつけてくれる。
確かに徒歩旅は自分にとって無茶な領域だった。すなわち「できるか分からない」未知の世界だった。だからこそ実行に移したのだ。
今までで言えば電車旅をやった。ヒッチハイクもなんとかできた。そして今回は歩き切った。

 

そうすると自分が意外と「できる子」なんだと自認する。誰に伝えるわけでもなく(この文では伝えてしまったが)、自分が出来たという感覚を持つことは何だか誇らしいことのように思う。実際に「やった」からこそ生まれる、中身のある自信は、次の大きな壁に立ち向かうための糧になる…かもしれない。


本当の意味での「やればできる子」という自信がここではじめて生まれるんじゃないだろうか。

 

※ここからあんまり旅の話ではないです。
(旅の途中で考えていたこと)


6 自分のことを知れる

社会は便利なもので溢れたし、大学生というか若者はその利便性を最も享受している人種だろう。みんなスマホを持っているし、活用する。
それに加えて同じようなタイミングで就活なりイベントが起こり、「人生における壁」は定型化されつつある。そうなってくると「ギリギリ」というもののレベルが個人差のないものになる。超個人的な見解でいえば、大体の大学生の行動の限界はせいぜい「ヒッチハイク」止まりじゃないだろうか。あと留学とか。


悩みのレベルにしたって同じだ、恋愛かバイトか就活か、そんなもんだろう。私もそうだ。

「おい!一緒にしてんじゃねーよハゲ!」
と思う方がいらっしゃる。どうか怒らないで頂きたい。そして私はそう思う人に賛同したい。

「一緒にされたくない」欲は周りの他人よりあるつもりだし、そうでなければこんな奇行には走らないわけだが、振り返ってみればこの旅は他人と違うことを高らかに叫ぶためのものだったのかもしれない。

 

そう聞くと、なんだか情けないし、
人と同じでいいじゃん!と思う方はそれでいいと本気で思う。なぜなら悩み得ないからだ。
問題だと認識できないことは問題にならない。
これほど幸せなことはない。

 

ただ悲しいことに多くの人が個性を探しながら、誰かとの相違を模索しながら悩んでいる。

学生の身分なのも踏まえて、人との違いという観点において「就活」は非常に繊細な問題だと感じる。例えば、面接やESでは「言葉」を使わなければならない。

つまり「言葉」という枠組みの中でしか自分を表せないし、人事担当の評価の基準も当然そこに依存する。同じようなストーリー、ないし自己PRの"表現"を用いている人同士でも、その背景が全く同じであることは皆無だ。そのように、本当は差があるのに、パッと見が同じであるために個性がないと思われてしまう。現状としてはその後に面接で「個人差」を作っていくのだろうが。

 

「だから派手なことをして『人と違う』アピールしろってこと?」というような話の流れになりがちだが、ここで私が伝えたいのは、特異な行動そのものではなく、人と違うことをすることで、新しい自分の価値に気づくことに意味があるということだ。

 

経験は自分を測るためのモノサシだと思う。
何かを体験してどう思ったのか、どう感じたのかを掘り下げて考えてみると、自分の価値観や性質への認識が改められることがある。自分を測り直してくれるといってもいい。

 

「自分はこういう経験をするとこう思うんだな」という認識の蓄積は、自分を説明するための最適な手段として用いられる。
どんな些細なことでもいい、例えば誰かの財布が落ちていてそれをどうするか、という経験はその人の倫理観を物語らせるし、夏休みに何をしたのかということだけでもその人の趣味や嗜好、価値観を説明するには十分な要素になる。

 

新しいことをすると、新しい価値観が見えてくる。人と違うことをすれば、人と違う目線で自分の価値観が表れる。

「私には何もないし…」というテンプレートが幾度となく学生間で繰り返されているだろうが、それは単純に「測り不足」なだけだ。自分の身の回りに起きた経験を振り返ってみれば、いくらでも人と違う所は見つかる。


当然、手持ちの材料(経験)でもヒントはいくらでもあるが、画一的なものから離れる手段として、ある種の突飛なことへのチャレンジはオススメしたい。

そもそも所詮は学生だし、余程特別でなければどんぐりの背比べだ。大体20数年分の経験を超えることはないし、能力差もそこまで大きくないと思う。


ただ、それらに差がつくのだとしたら、自分をどれだけ多角的に捉えられているかということだろう。どれだけ多様な経験をして、自分を多くのモノサシで測れているかが重要だ。

周りと同じような経験をしていては、感想や発見もその範疇を出ない。周りと同じようなモノサシでしか自分を測れないから、同じような言葉や表現に陥ってしまう。

他者と異なる行為をしたか、という点そのものがステータスになるのではなく、そこで得た経験が自分をどう「語らせるのか」のかが重要なんじゃなかろうか。

 

就活の話は自分でも耳が痛いので、深く言及はしない方がよさそうだ。なぜか長々と書いてしまったが、間違いなく上記の内容を考えられる機会があったことは、この旅の恩恵だろう。

…とかなり横暴にまとめたが、旅を終えて思うこととしては本音だ。現状振り返ってみて初めて気づくことばかりなのだから、やっぱり経験そのものより、「モノサシの獲得」に価値がある。

 

「自分探しとか(笑)」という声も聞こえないわけではないが、別に私は自分を探しに行ったわけではない。何となくやりたいことにチャレンジしたら、たまたま見つかっただけという感じが強い。そもそも「自分探し」なんて、明確に線引きできるものはないと思っている。理由としては、個人の行動は全て「自分という要素」が介在していて、どんなことをしたところで「自分を探す」チャンスは生まれてしまうからだ。要はそれを自覚してるかしてないか、そういう問題に過ぎない。

何にせよ、私としてはこの旅をやってみて良かったと思っている。終わりにつれて冗長になってしまったが、とりあえずこの場は収めようと思う。

 

総評: しずおかけん、だいすき!(無邪気)