ウキアシタタズ

頑張れたことを頑張って書きます

結論、愚痴。

SNSなどでよく見る犯人像について

 

はじめに
今、SNSの不毛なリプライ合戦は、どこにでも見ることが出来る。ストレスを溜めたいときに是非活用してほしい。

ところで、そんな不毛な争いを見ていると、「誰が悪いのか」という話でレッテル張りや揚げ足取りが盛んに行われているのが分かる。
場所を変えても、同じような論争が広げられている。話題も、そこを構成する人物も異なるのに、だ。

 

そこで私は、「これを1種のパターンとして読み解けば、批判する人間を俯瞰して見ることの出来るーーすなわち、冷静な人物像として君臨できるのでは?」と邪で稚拙極まりない内情を理由に、この文を書き始めた。

 

要は対象をカテゴライズをすることで、自分自身の優位性を得ようとする気概が、高まってしまったのだ。

書いていて既に自分自身を小憎たらしいと感じ始めたので、書き溜めてたものをコピイアンドペイスト(ウザい)にて本文を以下にしるす。

 

犯人像① 加害者
最もわかり易く、そしてほぼブレることのない犯人である。この人物が居なければ問題にすらならない。当然の話だが、ネットや世間に知れ渡れば物凄い非難を受ける。

一方で、事象に対して一切無関係である第三者が過度に叩き過ぎでは?と感じないことはない。何かの罪を犯した人間というのであれば何を言っても、行ってもよいのだろうか。

犯罪や悪事は然るべき処置で裁かれるべきだが、相手が悪人であれば何をしてもいい訳では無いし、残念ながら第三者たる私たちには加害者を裁く能力も権力も有していない。

結局のところ第三者からしてみれば、加害者は鬱憤ばらしのために使われるだけの存在なのかもしれない。

当然、こう言った社会的な非難と法による処置を引っ括めて「断罪」とする論もあるので、簡単に結論付けることは難しい。

ただ、言えることとして、第三者たる私たちには加害者といえど、過激な言葉で粛清しようとする義務などないことと、それがSNS等では、被害者を含めて多くの人に伝わる可能性があることの意味を考えなければならないということだ。

 

犯人像②被害者

自分で書いていてもう既におかしいと感じているが、ケース的には有り得るので、ここに記すことにする。

この場合は大きく2つに分かれている。

一つは「加害者は何らかの方法で裁かれたが、被害者にも事象を起こした罪がある」場合だ。
昼ドラのミステリーやサスペンスなどではよく見られるが、加害者からあまりに酷い扱いを受け続けていて、耐えられなくなって事を起こす、というパターンや、いわゆる喧嘩両成敗的な結論に持っていくような時、このケースは起こり得る。

至極簡単に言ってしまえば、両方加害者であり、被害者でもある。ということだ。

ただ実際のところ、あまり見たことがない。と言うよりも、そういった加害者と被害者の関係についての深い所まで、知るべきではないというところなのか、あるいは報道機関なり、伝える側が端折っているのかは、わからない。

被害者を犯人とするの2つ目のケースは、
「被害者は予防、あるいは阻止できた可能性を無視している」という論調だ。

こちらは所感ではあるものの、大体お門違いなのではないか?と感じることが多い。

痴漢であれば被害者が
「痴漢に遭いやすい格好をしている」
いじめであれば
「言い返さなかった」
インフルエンザ等、病気の場合
「予防できたのでは?」

というような形で持って現れる。
犯人像①でも挙げたように、第三者は事象とその関連する人物に対して何のアプローチも出来ないので、あくまでその"実情"は想像によって支えられている。

タチが悪いのは、実情が想像とかけ離れていようがお構い無しに批判を繰り返すことだ。

根も葉もない言い方をしてしまえば、ひねくれて考え過ぎである。加害者が悪い、それだけでいいのではないだろうか。

 

こういった論調が起こり得るのは、
「自分の身は自分で守れる」という考え方の暴走だと私は考える。他者に対して批判的になれるということは、裏返せば「自分ならばそうはならない」という確信の元でなされる。

だからこそ、
自分は(今の所)間違っていない
=他者はどこかしらを間違えている
と考えてしまうのである。しかし、物事というのは人が予測できる事ばかりではない。事故であれば尚更だ。

「自分であれば大丈夫」という確信は、
事が起きてないからこそ、信じられるものだ。
人は自分がいつか死ぬとは知っていても、それが明日だとは思っていない。

そうしたことを念頭に置くと、
「自分の身は自分で守ろう」という理論は、ある程度までは有効であるものの、一定のラインを超えてしまえば幻想である、というのが私の見解である。

第三者が加害者どころか、被害者までも批判の対象としてしまうのには上のような心理が働いているのではないだろうか。


犯人像③ 社会(みんな)

今まで散々第三者の批判ぶりを批判してきたが、私も含めてこうなってしまったのは、特定の誰かが悪事を働いたからではない。

いつの間に、何らかの作用が働いて、雰囲気が出来上がって、あたかも自然にこうなってしまったのだ。誰が悪いわけでもないが、全員が悪いとも言える。

というのがこの犯人の決定の仕方である。
社会というものがあまりに多くの要素を内包しているが故に、反論がしにくい上、正しそうに見えることが多い。

「事象Aが起こったのは、事象Aを起しやすくしてしまった社会にも要因がある。」

誰かのせいにしていない分、誰も責任を感じないこの論理は「正しいが、何も変わらない」ものだと私は考える。

この理論が発展しやすくなる際、多くの場合は社会的な大ニュースや大規模な事象である。
事の大きさから、一概に誰かを罪に問えないために、社会全体を批判するという流れだ。

悲しいかな、この論理は使い勝手が非常に良いため、逃げ口上としても有効である。

特定の事象において自分ないし他者と批判し合う時、「あなたも自分も悪いのだから、受け入れてしまってお互い批判するのは止めましょう。」と言った具合にだ。

こういった結論が出される時、改善策として提案されるのは殆どの場合において
「みなさんの意識が社会を変えます。なので気をつけましょう」くらいのレベルに落ち着く。

 

犯人を決定した上での改善、というのは法による処置や、厳しく矯正することでもって達成される。しかし、犯人があまりに曖昧で多数に及ぶ、社会というものを相手にすると、責任が分散…いや霧散することで、投げやりな結論になってしまう。

また、たとえば、人間が増えすぎて起こる問題に関して、人が居なくなればいい、という過激な意見を稀に見かけるが、社会を犯人にした際に醸し出される、やり切れない雰囲気に対する、かれらなりの一応の答えなのではないだろうか。

一般的に過激であればあるほどに、答えはハッキリする。逆に穏便にすまそうとすればするほど、答えは曖昧になるだろう。
そういった対立構造を見るには、社会全体を犯人として挙げることに意義はあるのかもしれない。

 

犯人像④ 物

モノが犯「人」というのもおかしな話だが、世の中の問題が「モノのせい」というのは良くある話ではなかろうか。

『犯人像③、社会』で扱ったような責任の霧散、というような現象はこちらでも起こり得る。責任というか、モノは当然口を聞かないために、一方的に犯人扱いされることがある。

SNSのせいで問題が起こる
インフラが充実したので、都会に人口がより集中した
スマホ歩き
などなど

モノが便利になり過ぎたせいで、人は何かを失っている、という論調がある。まさにこのことを指している。

至極真っ当だと思うことを書かせてもらえば、モノは所詮モノであり、モノが人に作用することはない。人が間違えてモノを使うから問題になってしまうのだ。

ただ、便利になったモノが人にとって目に見える効用だけを発揮しているとは限らない。

効率化によって時間が生まれる。携帯化することで場所に縛られなくなる。空間と時間の意味で人に余裕を与えている。

当然技術の進歩の多くは企業などによる、たゆまぬ努力によるものだ。企業は新しい価値を私たちに提供してくれる。いや、提供し続けなければならない。

つまり、限りなく世間は便利になっていく、ということだ。そして便利さ、というのは一度知ってしまうと手放せないものである。

企業ないし資本主義は便利を提供し続ける。
人々はそれに依存していく。

この関係は恐らく、一度文明とは逆方向のパラダイムシフトが起きない限り、永遠に続くような根の深い問題である。

故に、モノのせいにする、という人間側の「ミス」は、もう限りなく解決するのは難しい問題なのかもしれない。

 

おわりに
ここまで世間、とりわけSNSやネットでよく見る犯人像、という形でそれっぽく書き上げたわけだが、よく考えればこれは愚痴なんだと、振り返って思う。愚痴だと思ってしまうのは、きっとそれがここで叫んでも世間が変わるわけではないからだ。そして何より私自身がこの文章に対するレスポンスを望んでいない。


オチもねーのか!この野郎!
(おわり)

流行

私は流行というものに、幾分疎いです。

服装から趣味、話題になってるものが分からないうちに過ぎ去って

「あ、あれ話題のヤツだったんだ」となることが多いです。

 

別にそれで損をしたと思ったことはないですが、これでいいのか…?と思うことはままあります。

 

そう感じるのにも理由はあって、流行に無関心な俺カッケー的な振舞いをしたくないのと、単純に情報のアンテナが低いのは問題だと自責の念に駆られているからです。

 

じゃあ直せよ、と言いたい。言いたいけれども、それはそれで心に引っかかるものがあるので、「流行に疎い自分」でもいい理由を探します。


1.「写真」

今世間ではフォトジェニックというのが、話題らしいじゃないですか。いわゆるインスタ映えとかそういった類のものです。


今はスマホで気軽に綺麗な写真も撮れますし、流行るのも分かります。ただ、私がひねくれているのか、「みんなが撮っているもの」って撮りたくないって思っちゃうんですよね。

 

いやしかし、風景の良いところだとか、美味しそうな食事なんて、今まで何枚撮られてるか分かりませんし、手垢にまみれてます。要は、私がドヤ顔で「世界初」の写真を気取ったとして、それは過去に何回も行われた、悲しい幻想だということです。

 

たとえばウユニ湖なんてマジで撮りたくないです、いや行けば撮りますよ。でも行かないうちは撮りたくないです。つまりあまり行きたくないです。

 

正直言えば、同じものを撮りたくない、なんてほぼ不可能です。だけどそこを頑張りたい。
という気持ちの問題です。はい。

 

 

2.「最悪お前らとは違う」でいたい

小学生の時の話です。
ある日、クラスのみんなは発売日を控えたポケモンの話題で持ちきりでした。あの時のゲームというのは、2色でヴァージョンを分けて売り出すことが多く、ポケモンは勿論、ロックマンエグゼも例外ではありませんでした。

 

大体ゲームをするのは男子なので、カッコイイ方をみんな選びます。ポケモンの赤緑で言えば、リザードンに人気が傾く訳です。
私もリザードンが好きでした。色でいえば緑なんて選びたくはありません。だけど私は緑を買いました。(正確にはリーフグリーンだけど)
誰一人フシギバナに食いつかないけれど、私の意地がそうさせました。

 

子ども心ながらに、リーフグリーンを買っている人は少なからずいるとは知っていたので、緑派であることを威張ったりはしませんでしたが、他の男子には「お前らとは違うんだッ!」という歪んだ主張を心に秘めていました。

それから10年経った所で、やはり私は私でした。最新作サンムーンで使うポケモンはマイナーと呼ばれるものばかりです。そしてだいたい負けます。

 

3.「唯一無二に、させてくれ」

流行に乗ることは悪いことではないと思いますが、流行が自分の成分の多くを占めた時、クソつまらない奴に成り下がると私は思います。

 

流行に乗って、それがブームを終えると、体の大半を占めていたものが無くなるので、きっと新しい流行でまた身を固めます。それ以降はずっと繰り返しです。

 

流行で体の大部分が占められないために、必要なものはきっと小学生の時にフシギバナを選ぶ、そんな変なプライドだと思います。ありがとう、草タイプ。

 

変なプライドが、意地が、「流行に疎い自分」の元凶でしょうが、これが無ければ無いで、そこそこ自分がどうなってしまうか、不安です。

 

ただの思い込みでも、唯一無二が欲しいがために、私は流行を諦めたのかもしれません。

 

と結局正当化して終わりましたが、書いててスッキリしたので良しとします。
(おわり)

 

 

 

考えてたこと③

3.不便

便利なことって沢山あるけれど、便利って楽しいか?って言われると微妙なところです。

 

便利になって、出来なくなることは沢山あります。道具なしでいきなり「火をつけろ」と言われても大体の現代人は出来ないでしょう。


それは火を付けることにかかる時間やコストが無駄だから、時代が進むにつれて淘汰されたとも言えます。だから便利が悪いと言いたい訳ではありません。(この文もスマホで打ってるし)

 

ただ、ゼロから火起こしをあえてさせるような経験が出来る場所というのは今でもあります。当然需要があるからです。

 

火起こしをすることで、文明の進展を感じたり、いざと言う時に備えたり、サバイバル気分を味わったり、人によって楽しみ方こそ違いますが、そこにニーズや価値が生まれることは多々あると思います。

 

これはごく一部の話で、不便だからこそ楽しめるものっていくらでもあると思います。
私はゲームが好きなので、安易にFFを例に上げちゃいますが、冒険始まってからいきなり飛空挺が使えたら、嫌じゃないですか。旅で大体の村やダンジョンを歩いて回るっていう「不便」があるからこそ、終盤のワープなり飛行艇に感動できる訳ですよ。

 

ゲームばっかの話で申し訳ないですが、属性三すくみだとか、ジョブシステムの得意不得意だとか、楽しみの中にも不便は溢れてます。いや、不便があるからこそ、面白さは際立ちます。

 

歩き旅の話に戻ります。ここまで来れば話の流れは察しが着くとは思いますが、歩き旅は不便だらけです。遅い、疲れる、宿はない、寒い、暑い、危ない、もっとありますね。

 

だからこそ、不便をどう乗り越えるか、壁にぶち当たった時に、自分を輝かせるチャンスになりうるんです。「俺スゲー」って思えるんです。不便が生むのは工夫で、工夫は面白い。

(おわり)

 

おまけ
また「歩く」という、人にとっての原初的行為に立ち返ることで、ヒトの身に微かに宿る魔力の素養を限界まで引き上げることが出来る。
(現象を魔術の一端として捉えることが可能になる)

 

急に何を言っているんだこいつは、鋭い眼光を目の前の男に向ける。向けざるを得なかった。関与する必要などないのに、足はその場を離れず、目は男の姿を追い、耳は既に男の声に傾いていた。身体の不自由は、男に対する不信感を更に高める。

 

「君たちが呼んでいる科学というものは、あたかも魔術と呼称しても大きな差はないんだよ。」
大袈裟に身を振りながら、なるべく大仰にその内容を伝えようとしてくる。不愉快だ。

 

「仮に君がーーー。そうそこの君だ。君が遥か彼方、1000年前の人間ならば、現代の文明の発展を見て『これは魔術なんだ』そう告げられたならば、信じる他ないのではないだろうか。」

 

「要は呼び方の問題でしかないのだ。魔術に相応しい形に押し込めば、そこに差などありはしない。一つ例を示してみようか。」

電車というのは、
「駅」という魔法陣の中で
「切符」を媒介に
「距離」を対象にしたーーー
圧縮魔術である。

 

「『電車に乗る』たったそれだけの行為が、魔力を持たない人間に赦された、簡易的な空間圧縮術式なんだと、そう思わないかね。」

 

「自分も魔術に触れている?」あまりに現実離れしたこの事実に驚愕したのか、あるいは目の前にいるこの男の語り草に怯んだのか、一瞬の狼狽を生んだ。
男はそれを見逃さなかった。言葉を次ぐ。

 

「文明の利器に頼りきった現代の人間は、その現状を、利便性を、当然だと思っている。
ーーーいや、当然であるからこそ、当然か否かを問うことも忘れている。」

「そんな《当然》という呪縛から解き放たれる為の手段、それが徒歩であり、魔術を通して観測するということなんだ。」

 

何なんだこいつは。さらに嫌悪感が増し、舌打ちする。

 

「利便性の不認知、あるいは『当然』が常駐した精神汚染に対する、防壁・隔離の術式」
男が早口でまくし立てる。
舌打ちなど聞こえなかったように、狂ったように話し掛けてくる男をただ呆然と眺める他なかった。

 

「当たり前のことを当たり前じゃないと認識するためには、『一度失う』必要があることは、了承済みかな?そうでなくても、君はもう知ってるはずじゃないか。失敗する前から後悔なんて出来ないってね。間違えるから後悔出来るんだ。本来あるはずの《成功》の欠如、それが後悔の正体だ。」

 

本当に不意に、琴線に触れられた。誰が、後悔なんてーーー。知ったような口を聞くな。しかし、激昴は声に出ない。

 

「今まで当たり前だった、誰かを亡くす、モノを失くす、何でも構わないが、これらは大抵、不慮の事故のはずだ。コントロール不能で、神の采配たるものだ。」

 

「こういう偶然からしか、人は自分の傲慢さに気付かないのが普通だ。しかし、それでは実際に何かを失くすという実害が起きてからでしか、身動きが取れないーーー手遅れだ。」

 

男は先程までは見せなかった憂いの表情を浮かべながら、淡々と言葉を紡いでいく。ただ、何かあったのだろうかと、詮索する余裕はこちらにない。

 

「だから、自らで仮の「喪失」を創造すればいい。それが私の魔術体系の根本さ。」

先程までの憂いが冗談のように、声のトーンが上がり、傍から見ても高揚しているのが分かる。空気が薄くなる、熱気を帯びる。
そしてーーーー。

 

「徒歩!」

男が叫んだ。風が哭き、空気が振動する。意味も大してないであろうその咆哮に耐えられず、体勢を崩す。


男は何かを仕掛けてくる。そう身構えていた事が幸いだった。気までは失っていない。だが、肋骨が何本か折れている。

 

「徒歩とは、人の根本だ。前に進むための根源的ツール。だからこそ、歩く事以外は排除する。前に進むこと以外の《当然》を擬似的に失わせる。交通手段も!人間関係も!宿も!」

男は悠然と構え、続ける。

 

「そして気付くんだ。自分が如何に《当然》に囲まれていて、それなしでは無力でどうしようもない奴だってことをさ。」

私は黙っていた。黙るしかなかった。先程までの怒りはどこへ行ったのか、対峙する2人を包んでいるのは悲壮感だけだった。

 

「もう一つ、擬似的とはいえ、喪失の旅のあとに見えるものを、君は知っているかい?」

言葉が出ない。首を振ろうとするが、それすらも叶わず、空白が会話の間を埋めていく。
男はふっと笑って、両手を広げる。

 

「自己肯定だよ。自分が《当然》抜きでここまで出来るんだ、という認知だ。自分が如何に無力かを知るのと同じように、自分の本来の力を思い知るんだ。」

 

体に力を入れる。軋む。激痛が全身を包み、ギシギシと嫌な音を立てている。それでも、立ち上がる。まだ聞かなきゃいけない事が沢山ある。

「へぇ、まだ動けるんだ。もう止めればいいのに。ーーーそうだね。終わりに、しようか。」


彼は告げる。その魔術を。
この先もずっと。


ーーーこんなことを脳内で描きながら、歩いていたと話したならば、笑われるだろうか。足を動かしても動かしても変わらない景色の中で、悠久の時間を過ごしてもらえば、少しはこの気持ちも分かってもらえるかもしれない。
話す相手はいないから、頭の中は空想ばかりを描いていく。

残り、100km地点にて。
(なんだこれ)

考えてたこと②

2.実体験は「答え合わせ」

またも思考垂れ流しシリーズです。

 

世間の色んな事の大半は、本で読んだり、テレビで見たり、噂で聞いたり、想像したり、そんな事で知識として「知っている」ことが沢山ありました。今もそれらが脳みその殆どです。

 

普通、生活していくだけなら「知ってる」だけでも十分なんですよね。むしろ、一々経験して学んでるようでは人生時間が足りません。

そういう意味では、世間に蓄積されてきた知識(本とか)というのはとっても便利で、ある意味人間に時間を与えていると言ってもいいでしょう。

 

でも、知ってるだけでいいの?ってことも生活していると沢山あります。実体験もないのに全部知ったかのように話すのは、抵抗があります。それでコミュニケーションを取るとすれば、尚更無理があります。

それはどうしてでしょうか。多分、感覚を伴わないからです。感覚が伴わないというのは、実感がないということです。実感がわかない話を聞いても、実感がわきません。(当然)

 

話を本題に戻します。この徒歩旅は沢山の感覚に溢れたものでした。沢山歩くことがどれだけ大変で、大変なことの後の銭湯がどれだけ爽快で、目的地に着いた時の達成感がどんなものか、それらを実感する旅でした。

そして、私はそれらがどんなものか大方の想像が付いていました。それでも、想像だけで終わっていた「旅」と実感のある「旅」では、大いに違います。違いました。それこそ何となく「想像」できるはずです。

 

想像、というのはあたかも自分の経験を越えたものも脳内で描けるように感じますが、想像の質は実際はその個人の経験(実感の数)に依存します。
例えば、恋愛そのもののメカニズムを知っている「だけ」の人と、恋愛を重ねてきた人とでは重みが違います。
何かに困った時、知識が豊富な人よりも、経験豊富な人に何かを縋りたいと思うのもそのせいだと思います。

 

私が言いたいのは、
「想像なんかたかが知れてる」
ということです。想像をいくらしても、実感に敵うことは大方ありません。何かが予想外ですし、今までの実感の積み重ねこそが、想像を支えるものだからだと私は考えるからです。

 

だから、もしかするとここで話しているのも皆さんの想像を掻き立てるだけで、私の本当の実感をお伝えするのは難しいのかも知れません。

だからみなさんには、歩き旅というアホなことでなくてもいいので、「想像」だけで終わっていることを「実感」して欲しいと思います。それが私の考える……"答え合わせ"です。

(おわり)

歩いてる途中で考えていたこと①

 

旅をした話をして、よく聞かれることがあります。(先日も浜松から大阪まで歩いてきました。やったぜ。)

「歩いてる途中何やってんの?」
「音楽を聴くか、何か考えているか、しりとりをしている。」
「えぇ…(ドン引き)」
というやり取りに大抵なります。(憤怒)

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「じゃあ、何を考えてたの?」と聞かれて、ちゃんと答えることが出来なかったので、今ここでグダグダと書いていくことにします。

※考えていたことをそのまま文に起こしていたり、謎の「誰か」に向けて書いているので、読むと回りくどくて仕方ないとは思いますが、
「コイツ…こんなこと考えてんのか…」
と私の頭を覗き見るつもりでサラッと流して下さい。3回くらいに分けて投稿します。


1.冒険を、しよう。
なぜかゲームのキャッチコピーのようなタイトルになってしまいましたが、皆さんが最後に「冒険」したのはいつでしょうか。大人になればきっと私のように時間を取って旅をする、なんて冒険はなかなかできないでしょうが、「危ない橋を渡る」そういう意味の冒険なら、割と思い出せるんじゃないでしょうか。

 

一般的にリスクを取らなければならないシーンというのは忌避されます。だからこそ自分で自分を追い詰める、そんな機会が必要なのではないか。危ない橋を渡ってこそ、次の危ない橋を乗り越える糧になると思います。

 

長い目で見るとリスクを取らない方がリスクになる、なんてことは多分自分では気付けません。大体、壁にぶち当たった時、壁しか大抵見れませんし。それが今まで逃げてきた「壁」なら尚更対処法なんて分かりません。

だから、実生活に影響のでないレベルなら、冒険をしてリスクに食ってかかった方が、結果的にリスクに怯えずに済むかもしれません。

 

日常的に人はリスクのためにリスクを犯しています。
例えば、普通に生活してれば、スポーツで汗なんてかかなくても余裕で生活出来るのですから、意図していないだけで身体に負荷をかけている。そういうリスクを犯しています。でも実はそれ(スポーツをすること)が健康的であるとも言える。そういう意味ではこの旅も、スポーツも、勉強も、仕事も、どんなことも命に負荷をかけたり、時間を消費する行動です。

 

人生において、死ぬまでトータルで考えて、疲労感や怪我、苦労を軽減したいなら、トレーニングや鍛錬をしなければいけません。

 

そしてトレーニングもまた、命に負荷をかける行動です。早いか遅いか、それだけの違いです。当然、歳を取れば冒険なんて出来るわけもないですから、早くからリスクを背負っていくような冒険をするべきだと私は考えます。

 

私の徒歩旅は、簡潔に言えば1人きりの旅で、いつものようには他人を頼れないことと、普段の自分がいかに恵まれた環境を「当たり前」だと思っているか、を思い知るものでした。

 

私にとって徒歩旅は
「周りに頼りっきりでないと生活出来ないリスク」
「当たり前でないことを、当たり前のように錯覚するリスク」
を軽減するための、大冒険でした。(おわり)

シンガポール、行きました。②

間が空いちゃった…
続きものなのにダメですねこれは…
前記事はこちら。

 http://frasco5936.hatenablog.com/entry/2017/01/21/133057

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3日目

この日の目玉は「USS(ユニバーサルスタジオシンガポール)」ですね。オープン前から遊園地に並ぶのなんて7年ぶりくらいです。オープン5分前くらいから喋りの上手いスタッフが英語でもりあげてくれるのですが、英語力の乏しい私には以下のように解釈できました。

「おはよーッ、闇の者共、光の者共!

「これから楽しんでもらうんだから、エネルギーがなくちゃあいけないね!」

「ウォーミングアップがてら、拍手で各チーム(闇と光の)盛り上がりを見せてくれ!」

「光の者共!いくぜ?せーのっ!」 (拍手)

「いいねぇ!すんげぇpower(ネイティブ)!」 「闇の者共!負けてらんねぇよな?ん?」

「いくぞ?せーのっ!」 (弱い拍手)

「おいおいおいおい…これはいけねぇなぁ…」 「光の者共ッ!お手本を見せてくれ!」 (以下略)

思い出しながら脚色して書きましたので、大部ブレはありますがこんな感じでした。ちなみに当時私が「闇の者共と光の者共」と解釈していたのは本当です。多分間違ってますし、客を闇の眷属呼ばわりは流石に無いでしょう。

※時間が経って考えてみたら、「right」と「light」を勘違いして光だと思ったんじゃないかと思います。アホ過ぎる。

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乗ったもの

これ凄いっすね。USJで言うスパイダーマンだと思います。行ったことないので曖昧ですけども。浮遊感がクセになるか吐きたくなるか、二択を迫られます。意外なのはトランスフォーマーと言えば日本でもよく知られているし、相当並ばなきゃまず乗れないと思いがちですが、平日なら1時間で乗れます。しかもそれがピーク時だったっぽいので、その後2回目は10分とかで乗れました。決してクオリティが低いわけじゃなく、単純に混んでいない。

こちらも日本なら気が狂うほど待たなければ乗れなさそうですが、体感20分くらいで乗れました。水に濡れる系のアトラクションです。座る場所によってはアホみたいに濡れます。私はそうでした。向かいの席の女児に知らない言葉で笑われたのが印象的です。

  • revenge of mummy

エジプト的な雰囲気のエリアにありました。枠としてはTDLのスペースマウンテンって感じです。暗い中をジェットコースターで突っ切るイメージ。近くでアヌビスマンと写真撮れるのも魅力です。イケメンボディ過ぎる。

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↑真似できなくて江頭2:50みたいなのが私です

「踊るの好き好き!」で有名なやつです。USS内だと子ども人気が高そうなアトラクションな気がします。私自身のテーマパーク経験がないので例えるのがTDLくらいで申し訳ないのですが、これはTDLのイッツアスモールワールド枠です。「歳をとると良さがわかるアトラクション」なんて言われていますが、こちらマダガスカルも同じようなものでした。良さが分かる…ってよりは単純にゆったりしてるので、「癒し」という側面の方が強いと思います。

 

これだけちょっと原作が分からなかったのですが、ヒューマンとサイロンという二種類のジェットコースターが対になってます。このUSSの中だと1番スリルがあるアトラクションでしょう。二つとも乗りましたが、体感サイロンの方が怖いです。

他にもいろいろありますが、割愛。

システム面で驚いたのは、人気アトラクションには手荷物を預けるためのロッカーが付いていることです。ジェットコースターの類はほとんどが手荷物NGなのでスタッフには「そこに預けてこい」と指さされます。んで、このロッカーが特徴的で、1時間まではタダなんですよね。まぁ毎度毎度金とってたらタチ悪いのですが、待ち時間と延長料金までの時間がぎりぎりなので、一回アトラクションに乗る度に焦ります。

何より危なかったのは、全員が財布ごとロッカーに入れたせいで「延長した場合取り出せなくなる」状況になったことです。言葉もあまり通じないので、本当にそうなってたらヤバイヤバイ。

 

遊園地の帰りといえばお土産ですよね。観光客が多いのもあってUSSのお土産コーナーはかなり充実してました。USSにいたキャラクター達はもちろんですが、お菓子の類の充実感は半端なかったです。Hersheyのチョコレートやジェリービンズ、気色悪い色のマシュマロまで外国のお菓子天国でした。極彩色とはまさにこのこと。

外国のお菓子が好きな人ならUSS行かずにここだけでも十分楽しいです。Hershey棒太郎(適当)とかもいて写真を一緒に撮ってくれます。私は着ぐるみ全般が怖いので普通に断りました。

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断りました。(写真は私じゃないです)

 

帰りは夜くらいになりまして、やっぱり夜景が綺麗なのがシンガポール。横浜の工業地帯によく見られる「通称:麒麟がこちらにも建ち並んでいました。飛行機でシンゴジラ見たのもあって庵野節を連想させますね。

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4日目
シンガポール滞在もこの日が最後です。リトルインディアに向かいガチのカレーを頂くところから私たちの1日は始まりました。私たちが頼んだスペシャルカレーは、オーダーが入ること自体珍しいらしく、若干店員とお客さんがはしゃいでました。自分の携帯で全く関係ない私たちを撮るのだから、余程なんでしよう。美味しさは文字通りスペシャルでした。

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↑色んなスパイスを楽しめる。真ん中のはナンのようなもの。

食後はセントーサ島にまたも行くことに。目的は水族館です。最近水族館でのクラゲ人気が凄いということで、若干の期待を持ちつつクラゲコーナーに足を運ぶと、やはりクソ綺麗でした。流行る理由はわかる気がします。

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なぜかポケモンのイベント会場も隣接していたので、ついでに寄っていくことにしました。
日本人?と聞かれ、なら上級コースでも平気だな、と案内されました。日本人はみんなポケモン上級者という認識なんでしょうか。

そんなこんなで4日目終了。アンカービールでこのシンガポール観光はシメました。5日目は殆ど移動なのでカァット!

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↑飲みやすいぞアンカービール。

おわりに
シンガポールはいい所でした。というか、汚い場所がほとんど無いですね。観光に特化しているせいか、割と旅行初心者でも楽しめるのがgoodです。ただ一つだけ注意しなければならないのは、物価は日本と大差ないのでアジア圏だと思ってナメていると、財布に痛手を受けることになるでしょう。あと暑い。
夜歩いても治安がいいので安心ですし、夜景も最高なのでその辺も楽しめるポイントでしょう。あー楽しかった。(おわり)

シンガポール、行きました。

はじめに

激しいバイトとの戦いの末、多くの報酬を得た私は以前から計画していたシンガポール旅行を実行に移すことになりました。(実際はかなり前から準備していましたが)旅行慣れした友達がかなり安く用意してくれたので、2泊5日という厳しめのスケジュールで楽しめました。ぜーんぶひっくるめて7万円なんで安いと思います。ちなみに人数は私含めて四人いました。

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1日目-2日目

出発は成田空港なので、遠い。遠すぎなので、ずっとポケモンやりながら暇を潰していました。最新作サンムーンで好きなポケモンはダダリンです。到着して友人と合流した後飛行機に乗り込みました。今回の旅行では北京で乗換が必要だったので、6時間くらいで北京で降りました。その後5時間ほど空港で時間を潰して、夜の12時に出発、また6時間ほどで到着。
これ友達いたから楽しかったものの、乗り合わせ含めて時間もったいなさ過ぎですよね。飛行機の乗り換えは2度と使わんぞ!安かったから良いけど。


朝6時に到着し、スペシャルパスとやらで早くからホテルにチェックインできるということで、時間通りにホテルに行ったものの、受付のおっさんに
「あぁ?それ予約してくれたのね、どうも」
でもでもでもね、前の客まだ居るから」
「11時まで飯でもくって時間潰してこいよ
と言われ(超意訳)、外国特有のガバガバシステムを見せつけられました。

 

仕方がないのでホテルに荷物を預けて、シンガポールの街を歩き回ることにしました。
割と都市部と近かったので、ビル街やマーライオンまでサクッと着いてしまい、結局散歩ではなく普通に観光になっちゃいました。シンガポールの中にはいくつか〇〇街のようなものがあり、チャイナタウンリトルインディアなど各国の雰囲気が思いっきり漂う空間があるのも特徴的でしたね。チャイナタウンとかホント中国そのものでしたし、住む人によって街の雰囲気って作られるんだな…なんて思います。

↑チャイナタウン一角。売ってるものも中国感MAX。


さて、都市部なんですが、これがもう超ビル街なんですね。金の匂いがすごいんですよ。走ってる車ほとんど外車だし、いろんな物事がここで動いてる感が半端なかったです。そして呑気に水を吐き続けるマーライオン。結局マーライオンが何者で、何故あの姿なのかは分からなかったので、何らかの守護神というポジションなんだということにしました。あと一体だけじゃなくて沢山いるし、よく分かりません。

次は観覧車(約2800円)に乗りました。いくつになっても高い所は楽しいですね。結構独特な形で、2~3グループ相乗りなんですよね。その分大きいんですが、「わざと揺らしてビビらせる」みたいなのが出来ないのは残念です。ただ下以外全面ガラス張りなので、そんな事しなくても怖い人はかなり尿を漏らしそうになります。

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↑高いよ、高いです。


お腹も減ったので、現地特有の飯を食おうということで「ラクサ」(約600円)たるものを食べました。柔らかい麺に……グリーンカレー?というかココナッツのようなスープを足したラーメンみたいなものです。見た目より全然辛くない。それよりセットで頼んだ烏龍茶が熱すぎる。こっちの言葉が不自由でも、普通に考えてラーメンとホットの烏龍茶飲まないだろ!辛くないのにエラい汗かきました。

↑ラクサ。見た目が辛すぎる。


腹ごしらえも終えたところで、観覧車に乗っていて見えた、巨大な植物園に行くことにしました。それはどうみても「マザープラント」みたいなボスがいるダンジョンにしか見えません。根を先に倒してリジェネ(自動回復)を出来なくしてから倒すやつだと思います。実際に入ってみると、日本にないような植物ばかりだったので、普通に楽しめる場所でした。あと遠くから見えていたマザープラントの根(仮称)は近くで見ると雰囲気オシャレでした。あとこれは人工物のはずなんですが、どうしてこんなに植物感を出せるのかが不思議な感じです。シンガポール行ったら寄っても良い場所でしょう。

↑マザープラント。気持ちのいい場所でした。


夜はやっぱり夜景が良かったですね。私自身の夜景リストは新宿くらいしかなかったので、シンガポールの夜景は新鮮でした。なんかゴージャス☆だよね。ビル立てまくったみなとみらいみたいなモノを連想して欲しい。

iPhoneでもこんな感じだから一眼で撮りたかった…


んで、ディナーはチリクラブでシメました。ちなみにチリクラブ(約12000円)というのは、蟹をチリソース塗れにしたもので、異国の地だろうが普通に高いです。チリソースの美味さが最高でした。ついでに炒飯頼んでたので、これも美味しかった。多分どれ頼んでも美味しかった。

↑チリクラブ。ごちそうさまでした。

そして眠る。
(つづく)