ウキアシタタズ

頑張れたことを頑張って書きます

バタービールという存在

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つい最近、USJ行ってきたので、その中で一番私が楽しみにしていたバタービールについて書こうと思う。

まずバタービールとはなんぞや、という方もいると思う。だから私はあの神聖な飲料について、足りない語彙力と、本物のアルコールによって失われつつある思考を用いつつ、美味しいと感じてもらう努力をこの記事に落とし込んでいこうと、意気込む。

ハリーポッターシリーズに出てくる、未成年でも飲める飲料だ。「こどもびいる」に近いスタンスではあるが、味は結構違う。

魔法学校で暮らす彼らの生活にある、お酒(ノンアルコール)という認識でいいと思う。

さてこれが美味か否か、という話だが、こればかりは否定のしようがなく美味しいと言わざるを得ない。不味いという人間はいない。甘過ぎるという声も聞こえないし、値段が高いなんて言う奴は許さない。

…というのは流石に魔法学校的ジョークだと思ってくれて構わない。
ただ、私が美味しいと思うのは事実で、馬鹿みたいにこれを褒める私が白い目で見られるのもまた、事実だ。

基本的に私がこのブログで書くのは、独りよがりで偏屈な妄言ばかりで、賛同を求めるものではないのは、何となく感じてもらっているだろう。

だが、このバタービールに関しては、まず飲んでから、各々深く考察し、友と議論を交わし、時には喧嘩もしたけれど、今ではそれも懐かしい…。あれから色々あったけど、あの日交わした盃(バタービール)は忘れない。
今日は飲もうか、乾杯(バタービール)。

そんな人になって欲しいと切に願う。

…意味不明だし、バタービールで喧嘩するような人間関係は構築したくない。

ともかく、不味そうだし飲むのやめよーぜ、というのだけは避けてほしいし、そうなるように、この記事は書く。
つまり、私のブログにおいて、他人に「こうして欲しい」を強要するモノを書くというのは滅多にないが、バタービールという品は、私をそう至らしめるのに十分な味わいと、存在の深みがあることを理解して欲しい。

 

優しい飲み物
こともびぃるにも共通することだが、バタービールはアルコールを模したノンアルコールである。未成年の時、大人がこぞって飲んでいたあの黄色い飲料を、口の周りに泡をつけて飲んでみたい。そういう「こどもの願望」を気分だけでも良いから体験させてくれるのが、バタービールであり、こどもの願いの象徴と言っても過言ではないだろう。

同時に、大人にとっても、ビールを飲んでみたいと思ったあの頃の想いを再現してくれるとも言える。

ーーそれなりに「おとな」になった。あの時みたいに、正直に笑ったり泣いたりしなくなった。感情が薄くなるたび、酒に頼ってしまう。「飲み足りないから飲んでんの?」脳内で繰り返されるコールが、また自分の気持ちを分からなくさせる。吐いて、飲んで、また吐いて、いつからこんなに、なっちゃったんだろうな。居酒屋の便器の前でうずくまる、午後11:30。

例えば(くどい)このような、アルコールに慣れてしまった私たちを嘲笑うでもなく、ただバタービールは、童心を蘇らせるためのトリガーとして、そこ(USJ)に君臨している。これを優しいと言わず、何と言うのだろうか。

しかしこれで終わらないのがバタービールをより神秘の飲み物たらしめる所以だ。

 

価格などなかったのだ
確か前に買った時は600円くらいで、量は缶ジュース一個もない位だったので、割高であることは否めない。しかし、バタービールをオフィシャルな形で、かつ飲むのに相応しい空間で飲むことが出来ることも無視出来ない。

価値というのは不思議なもので、場所や空間、もっと言えばその人の気持ち次第で適正度は大きく変わる。

砂漠で干からびそうなら500円だろうが水を買うし、海なら塩水はタダじゃなければ気は済まない。(極論)

つまるところ、USJで飲むバタービールが600円なのは適正であり、上も下もないのだ。空気が無料であるように、バタービールは600円なのだ。

 

味について
甘いのは先程述べたが、実は二種類バタービールが存在するのはご存知だろうか。

冬限定なのか知らないが、ホットとアイスがあるのだ。しかし、単純に温度の問題だけではないことをここではお伝えする。

アイスについては、甘々なクリームと甘々な微炭酸が絶妙にマッチした甘党のための飲料に仕上がっている。まずはこれを飲んで欲しい。ごくごく飲むと喉が焼けるが、こまけぇことはいいんだよ(AA略)

※今更だけどAAとはアスキーアートのことで、略したのはあまりに有名なフレーズだったからである。

ホットについてだが、これはむしろアイスよりも飲みやすいかもしれない。基本的な味は変わらないが、炭酸がないことと、ジンジャーの風味が足されていることは見逃せない。

甘いものの、かすかに香るジンジャーが、辛味をアクセントとして至極の一品として、我々の舌を満足させる。
チャイラテとか飲み慣れてれば意外といけるので、こっちを頼むのも一考の余地がある。

というか両方飲め。

 

おわりに
好きなものを好きなように書き散らしたが、まだ私はこの神秘の飲み物を理解しきってはいない。私がその核心を理解しようとする時、それは神の領域への挑戦であり、神秘への冒涜になる。秘密が秘密足り得るのは、誰もそれ以上踏み込まないからだ。
知るのも、飲むのも、ちょっと物足りないくらいが丁度いいのだ。
(おわり)

猫がいる日常を思い描く私の日常

今、実家で「動物を飼おう」という潮流が生まれつつある。

犬か猫かといえば、犬派の私だが、猫を支持する私以外の家族3人に無視されるので、そのことについて口を開く気は無い。

ただ、「猫」を飼うことが、私にとって日常足りうるほど自然な存在であるか否か、家族の思惑とは関係無しに考え込んでしまう。

 

破壊と日常

私の親戚は猫を3匹飼っている。2匹はしっかり人の手で育っていて、1匹は野良が住み着いて…という形のわけだ。

どれも余所者(私)がいる間は大人しい。というよりも大人しいと親戚から伝えられると言い換えた方がいいかもしれない。

ポジティブに猫を捉えてくれ、そういう意味で「大人しさ」を主張されているように感じるのだが、言葉とは裏腹にガリガリに削られた壁を見る目は憂いに満ちている。

 

そんな私の親戚の姿を見ていると、家が壊される、そんな「非日常」を「猫のいる日常」として受け入れることは、私にはできそうにない。

 

気まぐれと踊る日常

猫は気まぐれ、というのは、犬が従順であるのと同じレベルで語られるし、大方異論はない。

気まぐれな彼らは、当然こちらの善意をひょいと避けて行くのだろうが、私はそれに耐えられるだろうか。耐えられないとどうなるのだろうか。

変な話だが、こんなひねくれた私が猫なんてひねくれた生き物を飼って、踊らされて、自分の"ねじれ"を真っ直ぐに伸ばされたのではかなわない。ひねくれ者は社会に一部でいい。いや、家庭に一人いれば十分だ。

 

無言と対話する日常

かといって、猫とのコミュニケーションを放棄する訳にはいかない。勝手な知見だが、猫の知能と人の知能を比べれば、恐らく大きな差があるだろう。そうであれば、尚更私は大人として彼らと向き合わなければならない。

私の話をしよう。私自身、子どもは好きだが、言葉も話せないような、いわゆる乳児との関わり方が分からない。分からない故に「子どもが苦手な可哀想なやつ」というレッテルがついてまわる。ある意味間違ってはいないので、改めてここでそれを否定することはしない。

注目してほしいのは、猫も言葉を持たない、ということだ。

動物好きが見るであろうバラエティ番組では、無邪気に振る舞う動物達に声を当てて、「人のように」動物達を振る舞わせるが、実際の動物達の心境とは異なるだろう。

あれは人のエゴだ。「こうあって欲しい」という人の願いを動物の所作という器に押し込めたに過ぎない。つまるところ、話す、あるいは人の意思を持ったかのようには動物は動いていないということだ。

その点に置いて、乳児と猫は類似している。話しても、伝わっているか分からないし、その返答も曖昧だ。「だぁだぁ」と「にゃあにゃあ」に差などない。

そんな相手を前に、私は言葉を紡ぐことが出来ない。息が詰まる。しかし一方で「話しかける」ことは求められる。「伝わっているかもしれない」という人のエゴに人である私が翻弄される。なんと皮肉なことだろうか。

……ここまでで、猫とコミュニケーションを取るという行為が私に取ってハードルが高い、ということだけ伝われば、それで良い。

 

それでも猫は日常化する

御託を並べ続けたが、私は最終的に「猫のいる日常」の一部になるし、こんな苦悩を抱えているとも知らず、猫は気まぐれに、自分の存在を日常に溶け込ませていく。

猫に絆されるのが怖いのだろうか、私には分からない。実際買ってみたらデレデレで、こんな文章は思い付かないのかもしれない。

そしてこんな私を猫は許すだろうか。身を委ねてくれるだろうか。今はまだ分からない。

 

…にゃんにゃん(萌えキャラ並感)

(おわり)

 

 

初夢

新年あけましておめでとうございます。(遅い)
今年もこんなチラシ裏の落書きのようなことを書いていきますが、よろしくお願いします。

もう腐るほど手垢着きまくりな内容ですが、初夢について今回は書いていこうと思います。
というのも、初夢について意識したことが今までなく、たまたまPCを起動したときに覚えていたので、書いてみようかな、というのが事の発端です。では。

 

私は、そんなに仲が良くないはずの三人と薄暗い空間の中、「その時」を待っていた。
睡眠との境目無く初夢の世界に放り込まれた私を除いて、だが。


「お前しかいないんだよ」ベースの彼は無責任に言葉を放る。どうすればいいか分からない状況の中で、不安な私を励ましてくれるのはありがたいが、ベースの君に突然のボーカル不在への助っ人を任されるほどの信頼関係を築けていただろうか。不安だ。

現状、分かっていることは、この三人とこのオーディションを勝ち抜かなければならないということだけだ。しかし、お世辞にも私の歌唱能力及び、スリーピースにおけるギター演奏能力は褒められたものではない。というよりも弾けない。何よりも不安を煽るのは、演目を知らされていないことだ。知っている曲ならともかく、何も知らされないでどうしろというのだ。

一方で、こんな不可解な状況を乗り越えようとする自分がいる事にも気付いてしまう。体育館のステージ裏で、「その時」を待つ三人の連帯感が、信頼関係どうのこうののプロセスをすっ飛ばして、高揚すら感じさせる。

一曲、一曲と演目が進んでいく。激しい演奏の合間の静寂が、いやに私の体を強張らせる。
その時、今まで話さなかったドラムの彼がポツリと呟く。
「絶対、成功させような」
「ああ」
なぜ、明確な返答を、相応しい形で、口走ってしまったのかは、分からない。だけど、私はこの三人で――――。
司会が私たちの名前を呼ぶ、ステージに上がり、視界が広がる。
スポットライトが眩しくて、観客は見えない。そして、これから歌う曲も分からない。

後ろを振り向いて彼らと目を合わせる。そして―――――――。

 

 


「歌います。『天体観測』」

 

 

 

目は、覚めた。
私は困ったときには天体観測を歌う。夢にしては有益な情報なんじゃないか。
今日は2018年1月1日。初夢の、あの二人と過ごしたステージ裏をまだ、覚えている。

 


しょうもないしオチもない。
(おわり)

天体観測 - Bing video

 

結論、愚痴。

SNSなどでよく見る犯人像について

 

はじめに
今、SNSの不毛なリプライ合戦は、どこにでも見ることが出来る。ストレスを溜めたいときに是非活用してほしい。

ところで、そんな不毛な争いを見ていると、「誰が悪いのか」という話でレッテル張りや揚げ足取りが盛んに行われているのが分かる。
場所を変えても、同じような論争が広げられている。話題も、そこを構成する人物も異なるのに、だ。

 

そこで私は、「これを1種のパターンとして読み解けば、批判する人間を俯瞰して見ることの出来るーーすなわち、冷静な人物像として君臨できるのでは?」と邪で稚拙極まりない内情を理由に、この文を書き始めた。

 

要は対象をカテゴライズをすることで、自分自身の優位性を得ようとする気概が、高まってしまったのだ。

書いていて既に自分自身を小憎たらしいと感じ始めたので、書き溜めてたものをコピイアンドペイスト(ウザい)にて本文を以下にしるす。

 

犯人像① 加害者
最もわかり易く、そしてほぼブレることのない犯人である。この人物が居なければ問題にすらならない。当然の話だが、ネットや世間に知れ渡れば物凄い非難を受ける。

一方で、事象に対して一切無関係である第三者が過度に叩き過ぎでは?と感じないことはない。何かの罪を犯した人間というのであれば何を言っても、行ってもよいのだろうか。

犯罪や悪事は然るべき処置で裁かれるべきだが、相手が悪人であれば何をしてもいい訳では無いし、残念ながら第三者たる私たちには加害者を裁く能力も権力も有していない。

結局のところ第三者からしてみれば、加害者は鬱憤ばらしのために使われるだけの存在なのかもしれない。

当然、こう言った社会的な非難と法による処置を引っ括めて「断罪」とする論もあるので、簡単に結論付けることは難しい。

ただ、言えることとして、第三者たる私たちには加害者といえど、過激な言葉で粛清しようとする義務などないことと、それがSNS等では、被害者を含めて多くの人に伝わる可能性があることの意味を考えなければならないということだ。

 

犯人像②被害者

自分で書いていてもう既におかしいと感じているが、ケース的には有り得るので、ここに記すことにする。

この場合は大きく2つに分かれている。

一つは「加害者は何らかの方法で裁かれたが、被害者にも事象を起こした罪がある」場合だ。
昼ドラのミステリーやサスペンスなどではよく見られるが、加害者からあまりに酷い扱いを受け続けていて、耐えられなくなって事を起こす、というパターンや、いわゆる喧嘩両成敗的な結論に持っていくような時、このケースは起こり得る。

至極簡単に言ってしまえば、両方加害者であり、被害者でもある。ということだ。

ただ実際のところ、あまり見たことがない。と言うよりも、そういった加害者と被害者の関係についての深い所まで、知るべきではないというところなのか、あるいは報道機関なり、伝える側が端折っているのかは、わからない。

被害者を犯人とするの2つ目のケースは、
「被害者は予防、あるいは阻止できた可能性を無視している」という論調だ。

こちらは所感ではあるものの、大体お門違いなのではないか?と感じることが多い。

痴漢であれば被害者が
「痴漢に遭いやすい格好をしている」
いじめであれば
「言い返さなかった」
インフルエンザ等、病気の場合
「予防できたのでは?」

というような形で持って現れる。
犯人像①でも挙げたように、第三者は事象とその関連する人物に対して何のアプローチも出来ないので、あくまでその"実情"は想像によって支えられている。

タチが悪いのは、実情が想像とかけ離れていようがお構い無しに批判を繰り返すことだ。

根も葉もない言い方をしてしまえば、ひねくれて考え過ぎである。加害者が悪い、それだけでいいのではないだろうか。

 

こういった論調が起こり得るのは、
「自分の身は自分で守れる」という考え方の暴走だと私は考える。他者に対して批判的になれるということは、裏返せば「自分ならばそうはならない」という確信の元でなされる。

だからこそ、
自分は(今の所)間違っていない
=他者はどこかしらを間違えている
と考えてしまうのである。しかし、物事というのは人が予測できる事ばかりではない。事故であれば尚更だ。

「自分であれば大丈夫」という確信は、
事が起きてないからこそ、信じられるものだ。
人は自分がいつか死ぬとは知っていても、それが明日だとは思っていない。

そうしたことを念頭に置くと、
「自分の身は自分で守ろう」という理論は、ある程度までは有効であるものの、一定のラインを超えてしまえば幻想である、というのが私の見解である。

第三者が加害者どころか、被害者までも批判の対象としてしまうのには上のような心理が働いているのではないだろうか。


犯人像③ 社会(みんな)

今まで散々第三者の批判ぶりを批判してきたが、私も含めてこうなってしまったのは、特定の誰かが悪事を働いたからではない。

いつの間に、何らかの作用が働いて、雰囲気が出来上がって、あたかも自然にこうなってしまったのだ。誰が悪いわけでもないが、全員が悪いとも言える。

というのがこの犯人の決定の仕方である。
社会というものがあまりに多くの要素を内包しているが故に、反論がしにくい上、正しそうに見えることが多い。

「事象Aが起こったのは、事象Aを起しやすくしてしまった社会にも要因がある。」

誰かのせいにしていない分、誰も責任を感じないこの論理は「正しいが、何も変わらない」ものだと私は考える。

この理論が発展しやすくなる際、多くの場合は社会的な大ニュースや大規模な事象である。
事の大きさから、一概に誰かを罪に問えないために、社会全体を批判するという流れだ。

悲しいかな、この論理は使い勝手が非常に良いため、逃げ口上としても有効である。

特定の事象において自分ないし他者と批判し合う時、「あなたも自分も悪いのだから、受け入れてしまってお互い批判するのは止めましょう。」と言った具合にだ。

こういった結論が出される時、改善策として提案されるのは殆どの場合において
「みなさんの意識が社会を変えます。なので気をつけましょう」くらいのレベルに落ち着く。

 

犯人を決定した上での改善、というのは法による処置や、厳しく矯正することでもって達成される。しかし、犯人があまりに曖昧で多数に及ぶ、社会というものを相手にすると、責任が分散…いや霧散することで、投げやりな結論になってしまう。

また、たとえば、人間が増えすぎて起こる問題に関して、人が居なくなればいい、という過激な意見を稀に見かけるが、社会を犯人にした際に醸し出される、やり切れない雰囲気に対する、かれらなりの一応の答えなのではないだろうか。

一般的に過激であればあるほどに、答えはハッキリする。逆に穏便にすまそうとすればするほど、答えは曖昧になるだろう。
そういった対立構造を見るには、社会全体を犯人として挙げることに意義はあるのかもしれない。

 

犯人像④ 物

モノが犯「人」というのもおかしな話だが、世の中の問題が「モノのせい」というのは良くある話ではなかろうか。

『犯人像③、社会』で扱ったような責任の霧散、というような現象はこちらでも起こり得る。責任というか、モノは当然口を聞かないために、一方的に犯人扱いされることがある。

SNSのせいで問題が起こる
インフラが充実したので、都会に人口がより集中した
スマホ歩き
などなど

モノが便利になり過ぎたせいで、人は何かを失っている、という論調がある。まさにこのことを指している。

至極真っ当だと思うことを書かせてもらえば、モノは所詮モノであり、モノが人に作用することはない。人が間違えてモノを使うから問題になってしまうのだ。

ただ、便利になったモノが人にとって目に見える効用だけを発揮しているとは限らない。

効率化によって時間が生まれる。携帯化することで場所に縛られなくなる。空間と時間の意味で人に余裕を与えている。

当然技術の進歩の多くは企業などによる、たゆまぬ努力によるものだ。企業は新しい価値を私たちに提供してくれる。いや、提供し続けなければならない。

つまり、限りなく世間は便利になっていく、ということだ。そして便利さ、というのは一度知ってしまうと手放せないものである。

企業ないし資本主義は便利を提供し続ける。
人々はそれに依存していく。

この関係は恐らく、一度文明とは逆方向のパラダイムシフトが起きない限り、永遠に続くような根の深い問題である。

故に、モノのせいにする、という人間側の「ミス」は、もう限りなく解決するのは難しい問題なのかもしれない。

 

おわりに
ここまで世間、とりわけSNSやネットでよく見る犯人像、という形でそれっぽく書き上げたわけだが、よく考えればこれは愚痴なんだと、振り返って思う。愚痴だと思ってしまうのは、きっとそれがここで叫んでも世間が変わるわけではないからだ。そして何より私自身がこの文章に対するレスポンスを望んでいない。


オチもねーのか!この野郎!
(おわり)

流行

私は流行というものに、幾分疎いです。

服装から趣味、話題になってるものが分からないうちに過ぎ去って

「あ、あれ話題のヤツだったんだ」となることが多いです。

 

別にそれで損をしたと思ったことはないですが、これでいいのか…?と思うことはままあります。

 

そう感じるのにも理由はあって、流行に無関心な俺カッケー的な振舞いをしたくないのと、単純に情報のアンテナが低いのは問題だと自責の念に駆られているからです。

 

じゃあ直せよ、と言いたい。言いたいけれども、それはそれで心に引っかかるものがあるので、「流行に疎い自分」でもいい理由を探します。


1.「写真」

今世間ではフォトジェニックというのが、話題らしいじゃないですか。いわゆるインスタ映えとかそういった類のものです。


今はスマホで気軽に綺麗な写真も撮れますし、流行るのも分かります。ただ、私がひねくれているのか、「みんなが撮っているもの」って撮りたくないって思っちゃうんですよね。

 

いやしかし、風景の良いところだとか、美味しそうな食事なんて、今まで何枚撮られてるか分かりませんし、手垢にまみれてます。要は、私がドヤ顔で「世界初」の写真を気取ったとして、それは過去に何回も行われた、悲しい幻想だということです。

 

たとえばウユニ湖なんてマジで撮りたくないです、いや行けば撮りますよ。でも行かないうちは撮りたくないです。つまりあまり行きたくないです。

 

正直言えば、同じものを撮りたくない、なんてほぼ不可能です。だけどそこを頑張りたい。
という気持ちの問題です。はい。

 

 

2.「最悪お前らとは違う」でいたい

小学生の時の話です。
ある日、クラスのみんなは発売日を控えたポケモンの話題で持ちきりでした。あの時のゲームというのは、2色でヴァージョンを分けて売り出すことが多く、ポケモンは勿論、ロックマンエグゼも例外ではありませんでした。

 

大体ゲームをするのは男子なので、カッコイイ方をみんな選びます。ポケモンの赤緑で言えば、リザードンに人気が傾く訳です。
私もリザードンが好きでした。色でいえば緑なんて選びたくはありません。だけど私は緑を買いました。(正確にはリーフグリーンだけど)
誰一人フシギバナに食いつかないけれど、私の意地がそうさせました。

 

子ども心ながらに、リーフグリーンを買っている人は少なからずいるとは知っていたので、緑派であることを威張ったりはしませんでしたが、他の男子には「お前らとは違うんだッ!」という歪んだ主張を心に秘めていました。

それから10年経った所で、やはり私は私でした。最新作サンムーンで使うポケモンはマイナーと呼ばれるものばかりです。そしてだいたい負けます。

 

3.「唯一無二に、させてくれ」

流行に乗ることは悪いことではないと思いますが、流行が自分の成分の多くを占めた時、クソつまらない奴に成り下がると私は思います。

 

流行に乗って、それがブームを終えると、体の大半を占めていたものが無くなるので、きっと新しい流行でまた身を固めます。それ以降はずっと繰り返しです。

 

流行で体の大部分が占められないために、必要なものはきっと小学生の時にフシギバナを選ぶ、そんな変なプライドだと思います。ありがとう、草タイプ。

 

変なプライドが、意地が、「流行に疎い自分」の元凶でしょうが、これが無ければ無いで、そこそこ自分がどうなってしまうか、不安です。

 

ただの思い込みでも、唯一無二が欲しいがために、私は流行を諦めたのかもしれません。

 

と結局正当化して終わりましたが、書いててスッキリしたので良しとします。
(おわり)

 

 

 

考えてたこと③

3.不便

便利なことって沢山あるけれど、便利って楽しいか?って言われると微妙なところです。

 

便利になって、出来なくなることは沢山あります。道具なしでいきなり「火をつけろ」と言われても大体の現代人は出来ないでしょう。


それは火を付けることにかかる時間やコストが無駄だから、時代が進むにつれて淘汰されたとも言えます。だから便利が悪いと言いたい訳ではありません。(この文もスマホで打ってるし)

 

ただ、ゼロから火起こしをあえてさせるような経験が出来る場所というのは今でもあります。当然需要があるからです。

 

火起こしをすることで、文明の進展を感じたり、いざと言う時に備えたり、サバイバル気分を味わったり、人によって楽しみ方こそ違いますが、そこにニーズや価値が生まれることは多々あると思います。

 

これはごく一部の話で、不便だからこそ楽しめるものっていくらでもあると思います。
私はゲームが好きなので、安易にFFを例に上げちゃいますが、冒険始まってからいきなり飛空挺が使えたら、嫌じゃないですか。旅で大体の村やダンジョンを歩いて回るっていう「不便」があるからこそ、終盤のワープなり飛行艇に感動できる訳ですよ。

 

ゲームばっかの話で申し訳ないですが、属性三すくみだとか、ジョブシステムの得意不得意だとか、楽しみの中にも不便は溢れてます。いや、不便があるからこそ、面白さは際立ちます。

 

歩き旅の話に戻ります。ここまで来れば話の流れは察しが着くとは思いますが、歩き旅は不便だらけです。遅い、疲れる、宿はない、寒い、暑い、危ない、もっとありますね。

 

だからこそ、不便をどう乗り越えるか、壁にぶち当たった時に、自分を輝かせるチャンスになりうるんです。「俺スゲー」って思えるんです。不便が生むのは工夫で、工夫は面白い。

(おわり)

 

おまけ
また「歩く」という、人にとっての原初的行為に立ち返ることで、ヒトの身に微かに宿る魔力の素養を限界まで引き上げることが出来る。
(現象を魔術の一端として捉えることが可能になる)

 

急に何を言っているんだこいつは、鋭い眼光を目の前の男に向ける。向けざるを得なかった。関与する必要などないのに、足はその場を離れず、目は男の姿を追い、耳は既に男の声に傾いていた。身体の不自由は、男に対する不信感を更に高める。

 

「君たちが呼んでいる科学というものは、あたかも魔術と呼称しても大きな差はないんだよ。」
大袈裟に身を振りながら、なるべく大仰にその内容を伝えようとしてくる。不愉快だ。

 

「仮に君がーーー。そうそこの君だ。君が遥か彼方、1000年前の人間ならば、現代の文明の発展を見て『これは魔術なんだ』そう告げられたならば、信じる他ないのではないだろうか。」

 

「要は呼び方の問題でしかないのだ。魔術に相応しい形に押し込めば、そこに差などありはしない。一つ例を示してみようか。」

電車というのは、
「駅」という魔法陣の中で
「切符」を媒介に
「距離」を対象にしたーーー
圧縮魔術である。

 

「『電車に乗る』たったそれだけの行為が、魔力を持たない人間に赦された、簡易的な空間圧縮術式なんだと、そう思わないかね。」

 

「自分も魔術に触れている?」あまりに現実離れしたこの事実に驚愕したのか、あるいは目の前にいるこの男の語り草に怯んだのか、一瞬の狼狽を生んだ。
男はそれを見逃さなかった。言葉を次ぐ。

 

「文明の利器に頼りきった現代の人間は、その現状を、利便性を、当然だと思っている。
ーーーいや、当然であるからこそ、当然か否かを問うことも忘れている。」

「そんな《当然》という呪縛から解き放たれる為の手段、それが徒歩であり、魔術を通して観測するということなんだ。」

 

何なんだこいつは。さらに嫌悪感が増し、舌打ちする。

 

「利便性の不認知、あるいは『当然』が常駐した精神汚染に対する、防壁・隔離の術式」
男が早口でまくし立てる。
舌打ちなど聞こえなかったように、狂ったように話し掛けてくる男をただ呆然と眺める他なかった。

 

「当たり前のことを当たり前じゃないと認識するためには、『一度失う』必要があることは、了承済みかな?そうでなくても、君はもう知ってるはずじゃないか。失敗する前から後悔なんて出来ないってね。間違えるから後悔出来るんだ。本来あるはずの《成功》の欠如、それが後悔の正体だ。」

 

本当に不意に、琴線に触れられた。誰が、後悔なんてーーー。知ったような口を聞くな。しかし、激昴は声に出ない。

 

「今まで当たり前だった、誰かを亡くす、モノを失くす、何でも構わないが、これらは大抵、不慮の事故のはずだ。コントロール不能で、神の采配たるものだ。」

 

「こういう偶然からしか、人は自分の傲慢さに気付かないのが普通だ。しかし、それでは実際に何かを失くすという実害が起きてからでしか、身動きが取れないーーー手遅れだ。」

 

男は先程までは見せなかった憂いの表情を浮かべながら、淡々と言葉を紡いでいく。ただ、何かあったのだろうかと、詮索する余裕はこちらにない。

 

「だから、自らで仮の「喪失」を創造すればいい。それが私の魔術体系の根本さ。」

先程までの憂いが冗談のように、声のトーンが上がり、傍から見ても高揚しているのが分かる。空気が薄くなる、熱気を帯びる。
そしてーーーー。

 

「徒歩!」

男が叫んだ。風が哭き、空気が振動する。意味も大してないであろうその咆哮に耐えられず、体勢を崩す。


男は何かを仕掛けてくる。そう身構えていた事が幸いだった。気までは失っていない。だが、肋骨が何本か折れている。

 

「徒歩とは、人の根本だ。前に進むための根源的ツール。だからこそ、歩く事以外は排除する。前に進むこと以外の《当然》を擬似的に失わせる。交通手段も!人間関係も!宿も!」

男は悠然と構え、続ける。

 

「そして気付くんだ。自分が如何に《当然》に囲まれていて、それなしでは無力でどうしようもない奴だってことをさ。」

私は黙っていた。黙るしかなかった。先程までの怒りはどこへ行ったのか、対峙する2人を包んでいるのは悲壮感だけだった。

 

「もう一つ、擬似的とはいえ、喪失の旅のあとに見えるものを、君は知っているかい?」

言葉が出ない。首を振ろうとするが、それすらも叶わず、空白が会話の間を埋めていく。
男はふっと笑って、両手を広げる。

 

「自己肯定だよ。自分が《当然》抜きでここまで出来るんだ、という認知だ。自分が如何に無力かを知るのと同じように、自分の本来の力を思い知るんだ。」

 

体に力を入れる。軋む。激痛が全身を包み、ギシギシと嫌な音を立てている。それでも、立ち上がる。まだ聞かなきゃいけない事が沢山ある。

「へぇ、まだ動けるんだ。もう止めればいいのに。ーーーそうだね。終わりに、しようか。」


彼は告げる。その魔術を。
この先もずっと。


ーーーこんなことを脳内で描きながら、歩いていたと話したならば、笑われるだろうか。足を動かしても動かしても変わらない景色の中で、悠久の時間を過ごしてもらえば、少しはこの気持ちも分かってもらえるかもしれない。
話す相手はいないから、頭の中は空想ばかりを描いていく。

残り、100km地点にて。
(なんだこれ)

考えてたこと②

2.実体験は「答え合わせ」

またも思考垂れ流しシリーズです。

 

世間の色んな事の大半は、本で読んだり、テレビで見たり、噂で聞いたり、想像したり、そんな事で知識として「知っている」ことが沢山ありました。今もそれらが脳みその殆どです。

 

普通、生活していくだけなら「知ってる」だけでも十分なんですよね。むしろ、一々経験して学んでるようでは人生時間が足りません。

そういう意味では、世間に蓄積されてきた知識(本とか)というのはとっても便利で、ある意味人間に時間を与えていると言ってもいいでしょう。

 

でも、知ってるだけでいいの?ってことも生活していると沢山あります。実体験もないのに全部知ったかのように話すのは、抵抗があります。それでコミュニケーションを取るとすれば、尚更無理があります。

それはどうしてでしょうか。多分、感覚を伴わないからです。感覚が伴わないというのは、実感がないということです。実感がわかない話を聞いても、実感がわきません。(当然)

 

話を本題に戻します。この徒歩旅は沢山の感覚に溢れたものでした。沢山歩くことがどれだけ大変で、大変なことの後の銭湯がどれだけ爽快で、目的地に着いた時の達成感がどんなものか、それらを実感する旅でした。

そして、私はそれらがどんなものか大方の想像が付いていました。それでも、想像だけで終わっていた「旅」と実感のある「旅」では、大いに違います。違いました。それこそ何となく「想像」できるはずです。

 

想像、というのはあたかも自分の経験を越えたものも脳内で描けるように感じますが、想像の質は実際はその個人の経験(実感の数)に依存します。
例えば、恋愛そのもののメカニズムを知っている「だけ」の人と、恋愛を重ねてきた人とでは重みが違います。
何かに困った時、知識が豊富な人よりも、経験豊富な人に何かを縋りたいと思うのもそのせいだと思います。

 

私が言いたいのは、
「想像なんかたかが知れてる」
ということです。想像をいくらしても、実感に敵うことは大方ありません。何かが予想外ですし、今までの実感の積み重ねこそが、想像を支えるものだからだと私は考えるからです。

 

だから、もしかするとここで話しているのも皆さんの想像を掻き立てるだけで、私の本当の実感をお伝えするのは難しいのかも知れません。

だからみなさんには、歩き旅というアホなことでなくてもいいので、「想像」だけで終わっていることを「実感」して欲しいと思います。それが私の考える……"答え合わせ"です。

(おわり)